この暑いさなか、詩集を読みました。現代詩の詩集なんて学生時代にしか読んだ記憶がありません。ということは、なーんと30年ぶり。しかも女流詩人の詩は思い出さないくらいでした。最近落語にはまっているおじさん三人組の一人、ビジネスカフェ平川さんのおすすめでした。声のエロスを追求している同志のおすすめとあれば、ただ者でないことは確かです。
詩人の名は小池昌代。1959年東京深川生まれ、拙僧とほぼ同世代を生きてきた人です。
『小池昌代詩集』現代詩文庫 思潮社
小池氏のこれまでの半生から生まれた六つの詩集と散文で編集されているものです。
詩というものは本来は音読するものなので、そうすることで理解しやすくなる。
高校の時の担任だった現代国語の先生に教わったような気がしますが、
仏教の経典には、写経や読経の功徳が記されていますし、
師匠からはお経は目で文字を追いながら音読すること。読んだ声は仏の声となり、
仏の声を聞くことで(如是我聞)難しいお経もやがて理解できるようになると、
教えられていたことが影響したのかもしれません。
声こそ出さなかったけれど、音読するつもりで一気に読みました。
読みやすいけど、簡単ではない。それがその詩集を読んだ感想です。
現代詩をほとんど読んでこなかった拙僧が、作品や詩人について論じることはできませんが、女性らしいきわめて具体的なディテールから言葉を紡ぎだし、文字に定着させて、観念の世界に昇華させようとしている、と感じたことだけは記しておきましょう。
具体的なディテールとは、例えば「裁判官のくび」だったり、「りんご」や「蜜柑」だったり、猫を撫でる時の感触だったり、男の靴だったりと、女性の目から見た生活の中にある感覚的なものごとを指しています。男女関係のシーンを表現した詩の中には、すごくエロスを感じるものもあります。現実の世界と観念の世界とが交錯して、一時こころのの空中浮遊を楽しむこともできますよ。
心に残る詩がいくつもありますが、フレーズをひとつだけあげるとすれば、
「蜜柑一個
わたしたちはいつも
それぐらいの何かを欠いて生きている」(「蜜柑のように」より)
もしかすると、動機不明で何となく、とか仏縁がありましてとしか言いようの無い拙僧の出家原因も、ずっといつも欠けていた蜜柑一個分の何かかもしれないと感じました。
もうひとつ、終戦記念日にちなんだ拙僧のおすすめは、
『昭和16年夏の敗戦』猪瀬直樹著 文春文庫
昭和16年夏の敗戦
残念ながら楽天ブックスでは売り切れのようです。他の本屋さんか図書館で探してください。
昭和16年とは、12月8日に日米開戦した年です。その開戦からわずか四ヶ月前の8月16日、各界から招集された「最良にして最も聡明な逸材」たち、内閣総力戦研究所研究生で組織された模擬内閣は、日米戦争日本必敗の結論を出していたという。著者は、その参加者(当然戦後日本のリーダーたちとなった)のキレ切れの記憶や残された資料など、歴史的事実の断片を集めて、エキサイティングな(不謹慎か)開戦前夜のこのドキュメンタリーを著わしています。
こういう正確な経済力と戦力比較、そして戦争遂行についての研究が極めて冷静な知性によってなされていたことと、そのプロジェクトチームが百戦百敗の結論を導き出していたことを思うと、それが歴史の大きな激流に押し流された結果とはいえ、A級戦犯とされる戦争指導者達の罪はさらに大きく感じられます。連合軍の行った極東軍事裁判の正当性を云々する前に、日本人300万人、中国人はじめ数千万人の犠牲を強いた大東亜戦争の責任は、日本人自らが問うべき歴史的課題であることが分かります。極東軍事裁判が国際法に違反する非合法な裁判であり、従ってA級戦犯は全員無罪の殉難者であるとの靖国史観は、真の殉難者たる戦争犠牲者とその意志を継ぐ者達によってこそ排斥されるべきものだと、あらためて感じました。猪瀬直樹というと、偏向しているとか言われそうですが、この本はそういう批判にも十分耐えて光るものだと思いますよ。
真夏の読書もまたいいもんですね。