ヒネッケンさん、たいへん参考になりましたので、皆さんにも紹介させていただきます。
>以前、河合隼雄が安部公房と、安部氏の「カンガルー・ノート」について対談しているのを読んだことがあります。「カンガルー・ノート」は、主人公が、足からかいわれ大根が生える奇病にかかり入院するが、ある日主人公を載せたまま、ベッドが勝手に外へと走り出すといった、いわば「荒唐無稽」な話です。安部氏は、創作の過程で、ベッドの車輪の径が小さすぎて道路をうまく走らないのではないか、と心配したと話しています。河合氏が「ベッドが走るというときに、他のことは全然気にならないんだけど、車だけ気になるとか、あるところだけがすごく気になるところがあるでしょう。」と応じると、「整合性に対する要求というのは、やっぱりその人の知識が原因ですから、感覚というより知識の問題になるんでしょうね。」と答えています。
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>対談後の感想で、河合氏は、「ファンタジーは細部にわたる現実感覚で補強されていないと、単なる絵空事になってしまう。」とコメントしています。ここで思い出すのが、「千と千尋の神隠し」です。例えば、千尋とハクが空から落ちる場面で、千尋が過去を思い出して感激して泣くのですが、涙が目から出るやいなや、風圧で目から引っ張りだされるようにして上方に飛ばされる、その様子がとてもリアルでした。
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>水戸黄門も所詮フィクションですが、やはりある程度ディテールがしっかりしていないと、「絵空事」になってしまう。家来が上司を捕縛することも、知識として持っているかいないかが、うそ臭いと思うか、思わないかの境目ということでしょうか。でも疑問は残ります。なぜ車輪の径は気になるのに、「ベッドが自走すること」は気にならないんでしょう。なぜ水戸黄門の勧善懲悪自体は気にならないのに、部下による上司捕縛は気になるのでしょうか。
>ながくなってすみません。
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仏教の中にも「一即一切」という考え方があり、一々の小さなことの中に一切を知る真実、真理があるという見方があります。華厳経では、私たち一人ひとりの中に仏さまがいて、その他の生きとし生けるものの中にも仏様がいて、山川草木にも悉く仏さまがいて、石ころ一つ、塵の中にさえも仏さまがいて、この宇宙には仏さまが遍満しているのだという教えがあります。
この仏さまは東大寺大仏殿にもいらっしゃる盧遮那仏で宇宙の万物を照らす仏さまであり、大日如来とも呼ばれていて、永遠の命を持つ大宇宙に普遍の真理、法則そのものなのです。
真理は細部に宿り、真実は細部に現れる。茶道や華道、能、日本画、伝統工芸などの職人仕事、すべて日本文化は細部が命であり、だからこそ世界に冠たる技術力を持つことができたのです。フィクションである物語もまたディテールを疎かにしては、人を感動させることはできないのだと、あらためて思いました。ということは、水戸黄門の制作者たちには、プロ意識が足りないのでしょう。適当にお茶を濁すような仕事は、やはり芸術家や職人の仕事とは言えないのですからね。
一即一切
合掌 観学院称徳