2005年11月22日 第4回教科書問題研究会1
第四回 教科書問題研究会05,11,22の報告日清・日露戦争に関する記述についての分析この教科書を読んでいると、本当かな、と思う箇所がたくさんあるので、調べてみた。「日清戦争」に関して扶桑社版には、甲午農民戦争に対して→わずかな兵力しかもたない朝鮮王朝は、清に鎮圧のための出兵を求めたが、日本も清との申し合わせを口実に軍隊を派遣し、日清両軍が衝突して日清戦争が始まった。 日本の勝因としては、新兵器の装備に加え、軍隊の訓練・規律にまさっていたことがあげられるが、その背景には、日本人全体の意識が、国民としてひとつにまとまっていたことがある。本当にまとまっていたのか。 日清戦争を契機に、村の成人儀礼のなかで次第に徴兵検査が節目となり、男性として「一人前」になる経験が共有されてきた。戦後のメディアはしきりに徴兵拒否によって罰せられ人々を「非国民」として報じた。(長志珠絵=「愛国心」の作り方・歴史地理教育04.lNo,664) 国内に組織的な戦争協力態勢=「銃後」をつくり出した。(献金、献納、応召兵家族の保護の義捐金募集、応召者送別会、見送り、戦勝祈願、停車場の接待、戦死者葬儀、戦利品展覧会、凱旋出迎え、慰安、幻灯会、小学校戦勝祝賀運動会・遠足、天皇万歳、帝国万歳、軍隊万歳、御真影、国旗掲揚、君が代歌唱―青年団・学校・宗教組織・市町村行政・地域各種組織)荒川章二=日本近代史における戦争と植民地・なぜ、いまアジア・太平洋戦争か1より 1890年代、政府・議会にとっては自由主義的経済原理を堅持し資本主義の急速な発展をはかることが最優先課題だったが、それは不可避的に「政治の見物人」たる民衆の生活基盤を動揺させる。その不満・不安を仁君としての天皇・皇后(国母)としての皇后が回収する、というわけだ。仁君イメージ自体は、明治維新の直後からみられたが、文明開化の先頭に天皇がたち、仁政の否定を「天皇の政府」が強行していたときは、なかなか民衆の心をとらえられなかった。〔牧原憲夫―客分と国民のあいだ―より)天皇制的国体論イデオロギーが国民に浸透していない日清戦争段階では、素朴な前近代的国民意識と戦争に動員された身近な人々に対する同情(これらが行政の組織した戦争協力団体や地方・地域の新聞によって統合・増幅される)「文明戦争」イデオロギーだけが、民衆の間に「ナショナリズム」的感情を呼び起こし、対外戦争への自発的協力を可能にする「テコ」となった。(大谷正一日清・日露戦争―近代日本の軌跡3より)これらの資料を見ると、総じて多くの国民は、日清戦争にあまり関心がなく、日本という意識も弱かった。というよりもあまり持っていなかった。 しかし、日清戦争を通じて国民意識を作り出した、といってよい。日本は簡単に欧米列強と対等になることは許されなかった。日本は、中国の故事にある「臥薪嘗胆」を合い言葉に、官民あげてロシアに対抗するために国力の充実に努めるようになった。(三国干渉)「日露戦争」より日英同盟→ ロシアは、1900年に中国で起こった義和団事件を口実に、満州(中国東北部)に2万の兵を送り込み、そのまま居座っていた。ロシアが満州にとどまって朝鮮半島に出てこないように、ロシアと話し合いがつくかが最大の争点だった。小村寿太郎の意見書で、 1902(明治35)年、日英同盟が締結された。~ 日本の安全に大きく役立った。日本の10倍の国家予算と軍事力をもっていたロシアは、満州の兵力を増強し、朝鮮北部に軍事基地を建設した。ロシアの極東における軍事力は、日本が太刀打ちできないほど増強されるのは明らかだった。政府は手遅れになることをおそれて、ロシアとの戦争をはじめる決意を固めた。1904(明治37)年2月、日本はロシアの軍艦に攻撃をしかけ、日露戦争の火ぶたを切った。兵員の高い士気とたくみに戦術でバルチック艦隊を全滅させ、世界の海戦史に残る驚異的な勝利を収めた。ここでも、ロシアの脅威が強調されるが、1901年北京議定書 (12条からなる)の9条によって列強は北京郊外から天津・山海関の指定された12箇所に軍隊を駐屯。(日本は、天津に司令部をおき日本軍約4000人を常駐させた。)1902年(明治35年)1月第一回日英同盟1902年4月満州還付条約 ロシアは18ヵ月以内に満州から撤兵するとの約束した。10月に第一次目の撤兵、 1903年4月第二次撤兵(居座り)2万人という表現は歴史的事実として間違っている。1万6千人であり、大部分は撤兵している。 ロシアの脅威に関しても、陸軍参謀本部の中堅将校のなかに「交戦派」が中心となって開戦論をつくりあげ、上層部をつきあげていた。韓国をロシアに制圧されては日本の存立は風前のともしびだ。朝鮮北部に軍事基地というのは、1903年竜巌浦事件のことであろう。 ソウル駐在武官、鴨緑江口に兵站部の工事と、ロシア公使が韓国政府に竜巌浦によるロシア人の保護を求めたのに対し、ロシア兵が兵器を輸入だ、防御工事だ、ロシアの軍需品を補給しているのだ、と。現地の陸軍将校からの情報は国内世論を刺激する内容をもつ中傷悪意の報道が種々伝えられ、現地の公使館・領事館等の情報は、真偽不明の報告多く、将校情報とは相容れない。ようは、露国森林会社の北韓経営と、純粋な伐木事業であった。また、中堅将校は、韓国北部についての報告原案のなかに開戦論に不利な内容があると報告を書き直させることまでもしたという。―大山梓(あずさ)「日露戦争の軍政史録」―参考に―馬山浦事件と栗九味租借問題(ユルグミ)・ロシアは海軍政策から朝鮮南部の馬山浦や巨済島(コヂェド)を確保しようとした。ここに海軍の根拠地を築く計画である。ロシアが馬山に手をつけはじめたのは1899年5月ころからだったが、日本はこれに対しすぐさま政府の後押しをうけた民間人迫間(さこま)房太郎を中心にロシアの先をこして馬山浦一帯土地買い上げに奔走させた。回収競争の対象地は居留地内ではなく、その周囲地であった。その結果ロシアの計画は失敗に終わった。ロシアの栗九味単独租界地の設定(条約上日本にも均霑されて、馬山浦日本専管居留地取極書の調印)、海軍根拠地というとただちに旅順や日本にある軍港や要塞地を想定してしまうが、ロシアが築こうとしたのは炭水供給と兵員の病院・休養施設などであつたが、失敗する。 これが事実であり、この教科書の書き方は、現在、北朝鮮の脅威を煽り立てる手法と似ている。 ロシアの脅威に対して仕方なかった戦争なのか、 日露戦争は、外交手続きの面でも軍事的行動面でも日本がロシアにしかけた戦争であった。1903年(明治36)4月元老山県有朋と伊藤博文、桂太郎首相・小村寿太郎外相の四人の密議で対露開戦の方針を決めた。(大江志乃夫―必要のなかった日露戦争―) ロシアはほんとうに日本がたちうちできないほどの戦力だったか、藤原彰― 日本軍事史戦前篇―より戦争直後の第9会議(1895年11月から1896年3月で、1896年(明治29)度から陸海軍とも、対露戦争に備えた大規模な軍備拡張計画を実施することが可決された。陸軍6個師団から12個師団 1903年(明治36)には、全兵力、歩兵156大隊騎兵54中隊、野戦砲兵106中隊(1中隊6門)、工兵38中隊が整備。歩兵および工兵は、30年式歩兵銃を、騎兵および輜重兵(しちょう)は30年式騎兵銃に統一、戦時動員する後備兵は、村田式連発銃を装備。総兵力約108万人。海軍、甲鉄戦艦4隻―朝日・敷島・初瀬・三笠―、一等巡洋艦6隻―八雲・吾妻・浅問・常磐・出雲・磐木―、2等巡洋艦―笠置・千歳・高砂―、3等巡洋艦―新高・対馬・音羽―、水雷砲艦―千早―、駆逐艦23隻、計106隻を建造する(1902年完了する)平均速力19ノット・発射速度一斉。ロシア極東駐屯兵力は、歩兵48大隊を中心―モスクワよりハルビンまで一軍団を輸送するには77日を要する、極東で給養しうる兵力は20ないし24万人にすぎない。(満州の現地給養力、単線のシベリア鉄道の輸送力を考えれば、満州において30万以上の兵力を給養できないであろう。したがって実際の使用戦闘員は25万内外であろうから「ソレニ対シ我ノ海外二使用シ得ヘキ戦闘員卜殆ド相等シ即チ少クトモ終始対等ノ兵力ヲ以テ戦ヲ交フルノ望アリ」というのが敵陸軍兵力の計算であつた。また極東にあるロシア艦隊に対して、日本海軍は優勢を持しているけれども、3月なかば到着予定の増加艦隊が到着すれば彼我の勢力関係は逆転すると判断した。)(対馬沖に出動した日本艦隊は、戦艦4隻、装甲巡洋艦8隻、水雷艇41隻を含む戦闘艦艇合計90隻、 10インチ以上の大砲合計24門ロシア艦隊戦艦8隻、装甲巡洋艦3隻、戦闘艦艇合計29隻、10インチ以上の大砲合計39門、平均速力16.6ノット、発射速度弾着の確認・射撃のデータ修正等)師団定員約18600~ 18400人・歩兵旅団2、歩兵連隊4(歩兵大隊12・歩兵中隊48)、騎兵連隊1(騎兵中隊4)、野砲兵連隊1(砲兵大隊3・砲兵中隊6)、工兵大隊1、弾薬大隊1、覇重兵大隊1、衛生隊1、野戦病院6。― 日露戦争当時―