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藤枝の空と緑と子どもたち

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2008.08.30
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カテゴリ:教科書問題研究会
 教育問題研究会 第8回例会報告
 
 新自由主義教育批判のために、「総合的な学習の時間」と「学力」の関係について整理したい。全国教研に参加してきたが、「文化創造と教育」の分科会では、伝えること、発信すること、発表することの重要さを思い知ってきた。長野の林先生は「メディア・リテラシー」について報告。情報の受けてとしての教育は発信する側になってはじめてわかる。総合的な学習でも、何を調べるかではなくどのように伝えるかを主眼に置く、と。たとえば,1年生では自己紹介の壁新聞作り。2年生では、沖縄ミュージアムを作ろうと23万本のつまようじを使って壁画作り、選挙も自己表現の場として40人が立候補するお祭りにしてしまう。3年生ではさまざまなテーマのアカデミアと称する研究・体験活動。最後はまるで成人式のような卒業式。3ヶ月かけて生徒主体で企画し、原稿を読むのではなく語っている。その中で、生徒はコミュニティを作り、優しい関係をつくっていく。
その他、国語表現の授業で紙芝居を作り、保育園で上演したり、教室を放送スタジオにして番組づくりをするなどの報告があった。その中で講義式の授業よりも生徒は確実に学力をつけているはず。その意味で総合や部活動は学校教育の中で特別な活動ではなく、もちろん息抜き、ガス抜きなどではなく、教育の中の重要な部分を占めている。ほんとうはそういう活動の中で「学力」をつけているのではないか。授業は別だと言ってしまうのではなく、授業でも同じような実践が必要なのではないか。
しかし、たとえば1960年代の「全生研」活動では、学級集団と学習集団との共通性を意識しつつ分けて考えてきた。学級集団作りでは班・核・討議などを重視して仲間づくりをしてきたが、授業での学習集団では系統性・順次性・力相応性などを考慮して教師の指導性、科学の系統性を重視した。そのあまり、授業ではいわゆる「注入」を脱しきれなかったかもしれない。
 また、「ゆとり教育」から「学力向上」への転換は新自由主義の第二ステージへの進展だという言説がある。ゆとりで格差をつくっておいて、学力向上でそれを既成化・固定化する、と。われわれは、ゆとり教育のときに国民共通教養の破壊であると反論してきた。しかし、ゆとり教育を生徒主体の問題解決型学習に移行するために有効に利用することができたのではないか。ところが生徒は「勉強しなくなった」し、「生徒が活動するための地域の受け皿もなかった」。たしかに受験校でも二つの意見があった。有名大学への進学率向上を望む意見と受験に偏せず幅広い教養をみにつけさせてほしいという意見。後者の方が実は学力がつくのだ、と自信を持って言い切れなかったのかもしれない。
 そもそも学びとは、人類の築き上げてきた文化の継承である。その文化を個人のもの、競争の手段にしてしまうことに問題がある。文化とは溜め込むものではなく、創り、広げ、継承するものである。たとえば、読書は個人の楽しみである以前に文化とかかわる行為であるのに、学校図書館のあり方、位置づけを見ていくと読書を個人の趣味の範疇に押し込もうとする魂胆も感じる。
京都の旭丘中学事件を思い起こす。図書館・運動会・文化祭などに力を入れてきた学校で、生徒が「綱領」を作っていた。力いっぱいのびのび生きることのできる社会、自分を大切にし他人を大切にする社会、誰もが生きていてよかったと思える社会を作るという大きな仕事をするために勉強しているのだ、と。学びと社会作り・文化創造は同じ行為として位置づけられていたが、弾圧されてしまう。「えひめ」の集団主義教育も、生活つづり方の「反封建」をさらに「反独占」に発展させたスローガンをかかげ、制度を変えられると位置づけていた。
 それにしても、文化の継承である授業も実は行事と同じ目的をもっていたはずだが、行事と授業との教育における目標の共通性を詰めることが不十分だったのかもしれない。だから、学びが競争の手段に取り込まれてしまった。マカレンコも「集団の見通しが各個人の見通しとつながる」といっていた。学級集団と学習集団をどうつなげるか、は重要な課題だったはずだ。
 資本主義はたしかに競争主義を内包している。それを批判する集団主義教育だったが、全生研では「班競争」が推奨されていた。よく理解していなかったのかもしれないが、私がそれをまねしてみた時係りの奪い合いなどがはじまり、たしかに自主的な活動が活発になったかのように見えた。しかし授業では班競争を取り入れるのには抵抗があった。集団主義と称しつつ、私は生徒にただ競争させていただけなのかもしれない。成果主義の労務管理と似たようなものだったのかもしれない。
フィンランドでは「新自由主義」的な経済政策をとりつつも、経済発展のために教育に力をいれるべきだ、そのために自治体や教師の自由を保障するべきだ、教えあい学びあう協同の知を作り上げる生徒主体の学びを保障するための少人数学級という方向をとっている。教育の内容や方法は専門家に任せ、政治はそこに口を出さず条件整備に徹する、と。他方、日本では新自由主義によって競争を強めれば強めるほど国家による規制を強めなければならなくなっている。また、秩序の崩壊を繕うために国家の強制力を強め、ナショナリズムを洗脳する「新保守主義」を同時にすすめている。これは、民主主義・人権の成熟度などの歴史的・文化的な違いだけでなく、ヨーロッパでは政府を挙げて環境問題などに対処せざるを得ない状況にあることも背景にあるのだろう。それにしても、同じ資本主義、新自由主義とはいっても、さまざまな方法論をとっていることがわかる。資本主義を全面的に否定するのではなくその中での改善策を作り上げていくことも必要だ。
 それにしても、最近の青年たちは、車をほしいと思わない、カネはあっても買いたい物があるわけではない、と物欲をなくし、企業にとっても深刻な問題になっているらしい。その他方で、ボランティアや環境問題のために行動する傾向もある。学校でも、地域とつながり、福祉・ボランティアに力を入れる傾向も強まっている。「ゆとり教育」のプラス面が生きてきているのかもしれない。うがって考えればそれも権力の策動かもしれないが、利用できなくはない。
 長野では、制服を着せている学校のほうが少ないし、体育大会より文化祭に日数をかける文化がいまだに息づいている。どうして生徒の自治や文化祭を重視するような教育ができるのだろう。大学にいっても伸びるのは長野の学生だとも言われる。
 梓川高校の林教諭は放送部の顧問だが、「漢字テストのふしぎ」というビデオ作品で注目を集めている。漢字の、はねる、とめる、筆順などを話題にし、ほんらいは決まりなどなくあいまいでよいものを現場の教師が細かく指導している実体を浮かび上がらせている。教師は戦争に生徒たちを導いてしまった。自分が「正しい」と思い込んだことを教えて。しかし、それは実は自分の物差しでしかなかった。教師が教えられるのは、正しいことではなく、正しいことを発見する技術であるべきだ。





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Last updated  2008.09.04 21:48:47
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