BSチャンネルで「リバティ・バランスを撃った男」を見た。ネタ明かしすれすれになるが、米国が銃社会から法治国家に成長?する過程で、こんなこともあったろうなと言う筋書きの社会派ドラマ、監督はウエィンとコンビを組んで長いジョン・フォードだ。1962年の映画だが画面はモノクロ、色を識別する必要がないので、そのぶん画面構成や人物の表情を読むことができる。このあたりの機微をフォード監督はわかっていた?この時代のカラーフィルムは日本ではかならず「総天然色」と言うキャッチが入って、ポスターも今に比べると毒々しい原色に近く、いい仕上げとは言えなかった。しかしフランス映画ではモノクロと総天然色とバージョンがあったのを憶えている。例としては、イブ・モンタンの「恐怖の報酬」があり、YOUTUBEにカラーの方がアップされていたことがある。しかし、モノクロに比べて色調がどぎつすぎて作品としてはモノクロの方が好ましいと思った。今の人には理解できないだろうが、昔はピンク映画と言うジャンルがあり、要するに今でいうポルノ映画の走りだが、カラーフィルムの節約のために画面がなんてことないときはモノクロ、ことに及ぶ画面はカラーになっていた。なので観客はモノクロ画面の時は寝ていて、カラーになると目を開けていた(笑)閑話休題
話題を戻すと、ジョン・ウエィンはフォード監督とともに西部劇のジャンルを切り開いた一つの方向で、いわゆる勧善懲悪、銃をもって銃を制すという筋書きだったが、この映画はちょっと違って、ウエインがベラ・マイルスに失恋するという物語、彼は常に強者だったのに降られた彼は泥酔いして自分の家に放火し、従者のウディ・ストロードに助けられるという、恋愛弱者を演ずる。また、マイルスが弁護士のジェームス・スチュアートに惹かれていることを知り、反面弁護士が銃の所持に反対していることを決して否定せず、批判はしながら最後にはスチュアートを助けるという役割は難しかったに違いない。ウエィンの表情の変化はなかなか彼が大根役者ではないという証明になるだろう。なんせ彼の真骨頂は、馬に乗ってインデアンや悪者を追い回し、拳銃では小さすぎるのでウィンチェスター73を乱射しながらやっつけるという役割が長かったから、とかく批判もあったのである。特に社会派の西部劇「真昼の決闘」でのゲーリー・クーパーとの演技の対比が西部劇ファンを二つに分けたのだ。クーパーの重厚な演技に対して、ウエインはただの大根役者と言うファンと、いやいやウエィンこそ本当のアメリカ人だというファンであった。クーパーなど弱虫で、助太刀を求めに街中探し回った挙句みんな逃げだし、最後に一人で悪漢に立ち向かうというストーリーは男らしくないというファンと、いやいやそうではない、彼こそアメリカ人の鏡じゃよと言うファンと、いろいろな方向で論争があったが、これもアメリカが世界の最強国だったころの国民の考え方だった。今でもアメリカに漂う銃規制と反対の流れのぶつかり合いはこのような映画の批評からも読み取れる。
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