|
テーマ:ニュース(100163)
カテゴリ:ペルーその日、その日
ペルー元大統領で日本国籍を有するフジモリ氏にペルーのパスポートが渡された。
世間ではこれによってフジモリの大統領選立候補するのではないかと考えるものが増えた。 それで思い出したのが かなり前に、カホンの先生が語ったこと・・。 「お前、フジショックって知っているか?」 うん、なんとなく・・。ハイパーインフレを抑えた政策でしょ。 1990年7月28日にフジモリ大統領が就任したが、その直後8月8日にインフレ抑制そして経済安定化を実現させるために価格統制物資の価格引き上げと公共料金の改定であった(注)。 {ガソリンの価格が一夜にして32倍に跳ね上がったほか、砂糖が13倍、パンが2.7倍、麺類やミルクといった基礎食料品が3倍から5倍になるなど、大幅な値上げが生活を直撃した。 この政策によってインフレが鈍化していった。 しかし、裏側では・・。 「実はな・・。あのときのショックのことを「フジがユッカを突き入れた」って表現されたんだよ。ユッカっていうのは山芋(キャッサバのような芋)のことだけど、男の性器っていう意味もあるんだよね」 え??そうなの?? 「あのときに物価が急に上がって・・。パンも砂糖もなにもかも生活物資が買えなくなったんだよ。」 「それで食糧が手に入らなくなってさ、パン1個や2個のため、砂糖一袋を手に入れるために殺人がおこってな、そういうのが新聞の見出しを飾ったんだよ」 そんなのぜんぜん知らなかった・・。 「ひどい時代だった。ウチのママはビールの卸業をしていたんだけど、食糧も買えないときに誰がビールを飲むと思う?商売がなりたたなくなって仕様がないからウチで食堂を開いたんだ。で、役人とか警察とか軍人を招いてさ・・。家族でショーをしたんだよ。ママはアルカトラズを踊るのがうまかったからね。オジサンたちとかに混じってさ、俺も音楽を演奏してね。ママもおどったりなんかして。それで、役人どもからチップをもらってさ、食いつないでいたんだよ」 当時の彼はまだ中学生。ペルーでは働く子供は珍しくないとはいえ、その時代の彼の家族の苦境がうかがわれた。 「フジモリはね、いいこともしたよ。でもね、こんなこともあったってことをわすれちゃいけないんだよね」 ネグロ(黒人)の彼は好奇心旺盛で異文化を理解しようとするタイプ。フジモリを恨むでもなく、支持するのでもない態度で語ってくれた。 この政策は効を奏し、前政権時代からのハイパーインフレは抑えられた。結果的にフジモリのショック政策は成功した。しかしその影で亡くなった人もあり、庶民が生活していくためにたいへんな戦いがあったことも忘れてはならない。 (注)”フジモリ”の「フジ」をとってフジショックという。ショック政策自体は元は対立候補であったバルガス・リョサの公約。フジモリはこのような政策を行わないと公約していた。 このときの措置にはその他に課税、徴税の強化、財政支出の削減などによる財政赤字の縮小、関税の簡素化と輸入税の引き下げ、行政改革による人員整理、公営事業の民営化、土地私有制の強化、などが含まれる。 この結果、インフレ率は1991までにひとけた台まで落ち着いた。 参考文献 フジモリ時代のペルー ペルーー太平洋とアンデスの国 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[ペルーその日、その日] カテゴリの最新記事
|