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カテゴリ:實戦刀譚
奇怪萬字剣 魂の抜けた刀(二) 筆者はひとつの痛切な、というよりむしろ悲痛な体験をもっている。 筆者は、居合い術にも精進を怠らぬものである。 大日本武徳會の居合い術錬士の末輩に過ぎぬもので、 奥底の知れぬこの術を云為するのは、甚だおこがましい。 居合い術というものは、真剣を以てする剣道の一部面で、 つまりいうと、真剣をつかいこなす修錬なのであるが、 自分がかつて用いた刀は、備前勝光、二尺五寸五分という、 長さに於いては至極恰好のものであり、それに樋もかいてあるから、 軽く振ってもヒュウと風を切る音がして気持ちがよい。 だが、相当長かったものの磨り上げである事は、 目釘穴が中心尻近くにあり、樋も通っている事でそれと知られたが、 さらにこの刀が、形態のよいのにもかかわらず、どうも身につかない。 抜き打ちの場合などに、鯉口のはなれ具合がよくない。 修錬の足らぬものと思っているうち、昭和十二年の春、 秩父宮梨本宮両殿下の御前演武の晴れの場所で、 大切な一本を失敗してしまった。 自分のやっている、桑名藩伝山本流には、 他流にない『諸手抜打』というわざがあって、 これは、時間的にも最も俊敏さを要し、 かつ能〔あた〕うだけの力量も加える、“一瞬の電撃”であるから、 相当技術が進んでからやるべきものとされており、 この一手だけで優に三年間の稽古を要するほどで、 したがってまた斬撃の効果も絶大だが、 座ったまま両手で抜き打ちにぶっ放す大わざだけに、 抜く瞬間の気合いを誤ったが最後、抜く事も出来ない場合が起こる。 それをやってしまったのだ。その時はじめて 「勝光は磨り上げであったせいかも知れぬ。 刀の魂が失われていたからではないか」と考えた。 ちょうどその頃、旧旗本の筆頭、横田筑後守の末孫横田林平という人が、 古い無銘刀で匂い切れ二尺七寸四分という刀をもっており、 それを借りて抜いてみた最初の感じが、 不思議な躍動力のこもったものであったから、 にわかに欲しくなり、譲り受けたいと迫ったが、銭金では売らぬという。 結局無名古刀の脇差しと交換して、ようやくの思いで入手したのだったが、 何分勝光より二寸も長いのだから、抜きにくい。 がしかし、たしかに自分の気合いと一致する不思議さに、 柄から鞘まで自製して愛用、その後一心不乱に修錬にはげみ、 今日においては、いかなるわざをするにも不自由はせぬようになった。 居合いの本旨たる 『長刀を抜く事短刀の如く、短刀を抜く事長刀の如く』 という条項と一致する諸々のわざも、この刀なら思う存分にできる。 例えば、極めてせまい場所で、 一尺直前にいる敵を抜き打ちに刺し殺すわざ、 つまり長刀を短刀に使う手も、楽々とできるのだ。 その後二回の宮殿下御前演武に出て、 前の恥辱をそそぎ、面目を施す事ができた。 やっぱり磨り上げ刀はいけないと、自分は固くそう思っている。 こうした事は、実戦の場合にもあてはまるものであろうと、 これもまた信じて疑わないところである。 前著『戦ふ日本刀』の中に書いた、敵を追撃しながら、 居合い術の中の“虎亂刀”という一手を繰り返して、 敵兵を四十七人から斬った時目少尉の用刀は、越前系の二尺三寸五分、 やや細身の、古刀としてはそりの浅いもので、 無銘ではあったが、その帯佩には申し分がなかった。 これは、ちょうどその頃、 勇猛横山部隊某少尉の行動を目撃した兵隊の話で、 「一人の敵に追いすがりざま、左の肩先を押し切りに斬った。 斬り伏せた時には、左の手が刀の背にのっていた。 敵の左肩はかなり深く切り下げられ、 第二動では、やっぱりその体勢で首を押し切りに斬って、 斬り放すのを見た。」というのであった。 筆者が、今度の支那事変の白兵戦で、 押し切りに敵を斬った事の見聞のひとつであるが、 こうした事は、居合い術中、 たとえば長谷川英信流や、伯耆流、山本流になどにある手で、 その少尉は、必ず居合い術の正式修得者であったろうと、 所属横山部隊の本部まで行って調べたが、ついに不明であった。 多分池田少尉であろうと、副官の一人はいっていた。 池田少尉なら、古刀祐定を揮って、一時に敵兵五人を斬り、 刀身に敵の小銃弾を受けたという記録保持者である。 昭和十三年六月四、五日開封陥落直前頃の戦であった。 昭和十二年の秋と覚えている。 東京市淀橋區十二社の熊野神社に奉納古武道形大会のあった時 立身流居合い術で、武徳會の居合い術教士号をもっている、 佐倉聯隊〔れんたい〕及び佐倉中学校の武道教師、加藤久先生が、 ものすごい試し切りをして、満場を驚倒させた。 直径一寸二、三分ぐらいの青竹を、五本束にして、 それを台の上に横に縛して置き、 一刀を抜いて、右側に水平に提〔さ〕げ、 気合いをはかって忍び寄りざま、片手切りにその竹五本を、 あたかも大根でも斬るように物の美事に切り放った。 たしかにそれは押し切りであった。 しかも、終始片手わざであって、それを間近に見ておられた、 日本古武道振興會の貴族院議員松本學先生は、いたく感心しておられた。 自分は、その刀を後で手に取って拝見した。 二尺四寸ぐらい、重ね身巾尋常、浅ぞりで、 さほどのものとは思われぬ新刀。 刃には荒い気味のネタ刃をつけ、柄は極めて丈夫なつくり、 薄藍色の絹紐巻きで、持って振ってみるに、 その帯佩は、気のせいも手伝ったであろうが、実に切れよさそうな、 むらむらとした気の漲〔みなぎ〕り渡ったものであった。 伊藤博士の『にぎり私考』の中にも、中山博道先生のお話として、 「居合術剣道共に鍊士の某将校は、北支戦線のある激戦中、 青龍刀を振りかざしてくる敵兵の間近に迫つては、 之をかはし抜き付けに、右片手で敵兵の右前膊〔みぎぜんはく〕を斬り、 返す軍刀は、両手で敵兵の右脚を斷つといふ、此の一法を繰り返した。 奮戦集結を告げて、 此の一太刀(居合ではこの二つの斬撃を一太刀と呼ぶ。)の 受傷者を求め數へた處、數十名に及びしとの事であつた。」 と書いてあるが、そうした刀もまた、 帯佩のよい、精気の漲ったものであったろうと思われる。 閑却されていた“居合いの手”というようなものが、 この事変を契機として復興し、再び脚光を浴びて、 武道の正座に登場すると思われる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2012年08月26日 23時50分08秒
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