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テーマ:日本的なるもの(437)
カテゴリ:陽明学
体充曰く、全孝の心法をいかように受用仕り候わんや。 師の曰く、孝経曰、夫孝天之經也、地之義也、民之行也、天地之經而民是則之。 (『孝経』「三才章」曰く、 夫〔そ〕れ孝は天の經也、地の義也、 民の行〔こう〕也天地の経にして而〔しこう〕して 民是〔ここ〕に則〔のっと〕る。) 又曰く、天地之性人為レ貴、人之行莫二大於孝一孝莫大於厳一レ父、厳父莫レ大二於配一レ天。 (『孝経』「聖治章」曰く、 天地の性は人を貴〔たっと〕しとなす、 人の行は孝より大いなるは莫〔な〕し、 孝は父を厳〔たっと〕ぶより大いなるは莫し、 父を厳ぶは天に配するより大いなるは莫し。) 又曰く、孝悌之至、通二於神明一光二於四海一、無レ所レ不レ通。 詩曰、自レ西自レ東、自レ南自レ北、無二思不一レ服。 (『孝経』「感応章」曰く、 孝悌〔こうてい〕の至り、 神明に通じ四海〔しかい〕に光〔あき〕らかなり、 通ぜざる所無し。 『詩経』に曰く、西より東より、南より北より、 思いて服せざるは無し。) 曾子曰、夫孝置レ之而塞二于天地一。溥レ無之而横二乎四海一、 施二諸後世一而無二朝夕一、推而放二諸東海二而準、推而放二諸西海一而準、 推而放二諸南海一而凖、推而放二諸北海一而凖、 詩曰自レ西自レ東自レ南自レ北無二思不一レ服、此之謂也。 (『礼記』「祭義」曾子曰く、 夫〔そ〕れ孝は之を置いて而して天地を塞〔み〕つ。 之を溥〔ふみ〕して而して四海に横たわる。 諸〔これ〕を後世に施して而して朝夕〔ちょうせき〕無し、 推して而して諸を東海に放って而して準ず、 推して而して諸を西海に放って而して準ず、 推して而して諸を南海に放って而して凖ず、 推して而して諸を北海に放って而して凖ず、 詩〔し〕に曰く西より東より南より北より思いて服せずということなし、 此れ之の謂〔いい〕也。 又曰く、衆之本教曰レ孝、其行曰レ養、養可レ能也、 敬為レ難、敬可レ能也、安為レ難、安可レ能也、卒為レ難、 父母既没慎行二其身一、不レ遺二父母悪名一、可レ謂二能終矣一、 仁者仁レ此者也、礼者履レ此者也、 義者宜レ此者也、信者信レ此者也、 強者強レ此者也、楽者自順此生、刑自レ反レ此作。 (又曰く、 衆の本教〔ほんきょう〕を孝と曰〔い〕う、 其の行〔こう〕を養〔よう〕と曰う、 養は能〔よ〕くすべき也、敬〔けい〕を難〔かた〕しとなす、 敬は能くすべき也、安〔あん/やすんずる〕を難しとなす、 安は能くすべき也、卒〔そつ〕を難しとなす、 父母既〔すで〕に没して慎んで其の身を行い、 父母の悪名を遺さず、能く終わると謂う矣、 仁は此れを仁する者也、礼は此れを履〔ふ〕む者也、 義は此れを宜しくする者也、信は此れを信ずる者也、 強は此れに強き者也、楽は此れに順うより生す、 刑は此れに反するより作〔おこ〕る。) 孟子曰仁之実事レ親是也、義之実従レ兄是也、 智之実知二斯二者弗レ去是也、礼之実節二文斯二者一是也、 楽之実楽二此二者一、楽則生矣、生則悪可レ已也、悪可レ已、 則不レ知二足之踏レ之手之舞一レ之。 (『孟子』「離婁上篇」曰く、 仁の実は親に事〔つか〕うる是〔これ〕也、義の実は兄に従う是也、 智〔ち〕の実は斯〔こ〕の二者を知りて去ら弗〔ざる〕是也、 礼の実は斯の二者を節文〔せつもん〕する是也、 楽の実は斯の二者を楽しむ、楽即ち生〔せい〕す矣、 生す則ち悪〔いずく〕んぞ已〔や〕むべき也、 悪んぞ已むべきときは、則ち足の踏み手の舞うことを知らず。) 礼記曰、仁人不レ過二乎物一、孝子不レ過二乎物一、 是故仁人之事レ親也、如事レ天、事レ天如レ事レ親、是故孝子成レ身。 (『礼記』「哀公問篇」曰く、 仁人は物〔こと〕を過〔あやま〕たず、孝子は物を過たず、 是の故に仁人の親に事〔つか〕うる也、 天に事うる如く、天に事うるは親に事うる如し、是故に孝子は身を成す。) 以上の聖摸賢範〔せいもけんはん〕をよく熟読して、 孝徳の親切真実、広大高明、無上無外、至尊無対にして、 孝の外には得もなく道もなき事を明らかに弁〔わきま〕うべし。 たとい其のおこなう所よしというも、孝徳の天真にそむきぬれば、 天威のゆるさざるところ、君子のたっとばざる所なり。 しかる故に孝経に不レ愛二其親一而愛レ他人一者謂二之悖徳一、 不レ敬二其親一而敬二他人一者謂二之悖礼一、 (『孝経』「聖治章」 其の親を愛せずして他人を而して愛するは、 之を悖徳〔はいとく〕と謂〔い〕う、 其の親を敬わずして他人を敬うは、 之を悖礼〔はいれい〕と謂う。) と戒めたまえり。 かくのごとくなる孝徳全体の天真を明らかにする工夫を全孝の心法と云うなり。 全孝の心法、その広大高明なること、 神明に通じ六合〔りくごう〕にわたるといえども、 約〔つづまる〕ところの本実〔ほんじつ〕は身をたて道を行なうにあり。 身をたて道をおこなう本は明徳にあり、 明徳を明らかにする本は良知〔りょうち〕を鏡として独〔どく〕に慎むにあり。 良知とは赤子〔せきし〕孩提〔がいてい〕の時より その親を愛敬〔あいけい〕する最初一念を根本として、 善悪の分別是非を真実に弁えしる徳性の知を云う。 この良知は磨而不磷涅而不緇 (磨〔ま〕すれども磷〔うすろ〕がず涅〔そむ〕れども緇〔くろ〕まず)の 霊明〔れいめい〕なれば、 いかあなる愚痴不肖の凡夫の心にも明〔めい〕にあるものなり。 しかる故に此の良知を工夫の鏡とし種として工夫するなり。 大学の致知格物の工夫これなり。 独を慎むとは、一念のすこしおこる時に良知を鏡としよく省察吟味して、 名利の欲、習う欲、間思雑慮などの邪念おこるときは、 我がおやの身をそこないやぶる不孝の罪人となりて、 幽〔ゆう〕にしては六極莫重〔りっきょく ばくちょう〕の鬼責〔きせき〕を受け、 明にしては五刑莫大〔ごけい ばくたい〕の 肉刑を受けるべき魔心なりとおそれ慎み、 火急に克〔か〕ち去りて神明に相通ずる至徳の独楽をもとむる工夫を云うなり。 一念の悪心にておやの身をそこないやぶると云う子細は、 孝経曰身体髪膚受二之父母一不二敢毀傷一孝之始也 (孝経に曰く、身体髪膚〔しんたいはっぷ〕は之を父母に受〔う〕けたり、 敢えて毀〔そこな〕い傷〔やぶ〕らざるは孝の始め也)。 この聖摸〔せいも〕の心は、我が身にそなわるものは心も性も身体も毛髪も、 皆〔みな〕親の心性・身体・毛髪を受けたるものなれば、 身体髪膚も本〔もと〕我が身体髪膚にあらず、親の身体髪膚なり。 身体髪膚の主本〔しゅほん〕たる心性も我が心性にあらず、父母の心性なり。 しかる故に、我が身体髪膚をそこないやぶるは、 即ち父母の身体髪膚をそこないやぶるなり。 我が特性をそこないやぶるは、 すなわち父母の特性をそこないやぶるものなり。 身体髪膚は、器にしていやしく、徳性は道にして貴〔たっと〕きものなり。 いやしき身体髪膚をそこないやぶるも大悪逆大凶徳なり。 身体髪膚の主本たる天の尊爵〔そんしゃく〕の徳性をそこないやぶるは、 猶以〔なおも〕て大悪逆大凶徳なり。 此の道理を明らかにわきまえて心によく守り、 不二敢毀傷一(敢えて毀い傷らざる)は 孝徳を受容する始めなりと教えたまうなり。 此の聖謨をよく体察すれば名利の欲、習う心、間思雑慮などの邪念を 克ちすてずして我が徳性をそこなうときは、 即父母の徳性をそこないやぶること分明〔ぶんみょう〕なり。 孝経この説の終わりに無レ念二爾祖一聿二修厥徳一 (爾〔なんじ〕の祖を念〔おも〕うこと無からんや、 厥〔そ〕の徳を聿修〔のべおさ〕む) といえる詩を引きて結びたまうも、此の意〔こころ〕を示し給わんためなり。 よくよく体認あるべし。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2016年11月04日 03時36分18秒
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