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( テモちゃん、ケーキ屋で順番待ちのあきてもさん待ち 2014年09月20日 あきてもさんのブログ より) 例えば君は待つと 黒髪に霜のふる迄 「居明かして君をば待たむぬばたまの わが黒髪に霜はふるとも」 万葉集 第二 相聞 89(居明而 君乎者将待 奴婆珠能 吾黒髪尓 霜者零騰文) 伊藤 博 訳『新版 万葉集 一 現代語訳付き』 (角川ソフィア文庫) 「夢見の技術」について考える その9 (前回からの続き) 馬酔(まよい)に馬酔って"青い山脈"も"ユートピア"も実現できなかった現代日本 当ブログで「日本会議」の具体名を挙げたのは 「・考察「君は『はだしのゲン』の町内会長を助けるか?」(2019年01月09日)からで ほんの1年と9ヶ月前ですから、それほど昔ではありません。 日本会議お抱えの御用作家が書いた(?)歴史本へのレビューがあまりにひどかったので あえて取り上げたのですが、 SNSなどで「日本会議」が話題になっている現状は、 各方面のいろんな情報を知って、やっと気付けた人が多いからでしょう。 日本会議と関係があるとされる宗派は、 神社本庁や新興宗教の生長の家、統一教会、その他です (それに加えて儒教、とりわけ朱子学の影響は無視できない)。 太平洋(大東亜)戦争の折に国家神道の下、大惨敗・無条件降伏した結果から見るに、 今後も「神道」の旗の下では戦争に勝てないし、 一度、政教分離を受け入れて「転んで」いるから神道を政治利用できるものかも甚だ怪しい。 神道そのものが数多〔あまた〕の日本人の手によってゴリゴリに貪〔むさぼ〕られ削られて、 すべての日本国民に現世利益をもたらすには疲弊しすぎているように見受けられます ( 明治政府による神仏分離令、廃仏毀釈が行われたわりに、 世界紅卍会〔せかい こうまんじかい〕結成により各宗教がごった混ぜされ、 のちの生長の家や幸福の科学を派生したりと、まったく徹底していません。 では、日本を負かした連合軍=欧米の、キリスト教、ユダヤ教はどうなのかというと、 数千年に及ぶ実施と失敗の繰り返しであって、 かたや変節転向を繰り返す拝金教徒の現代日本人には想像すらつかない部分があります。 『 承が形成されたかという歴史学的問いと、その伝承がひとたび宗教的現象として把握された 後、どのように理解されたかというまた別の問いを、当然区別しなければならない。宗教的シ ステムが確立した際には常にそうなのだが、伝承という現象がひとたび承認されると、歴史学 的な問題提起は信者にはもちろん拒絶された。歴史家にとっては、そうした問題提起はあくま で基本である。信者が受容していることに潜む意味を理解しようとするからといって、歴史家 はその成立に関わる主張、言うなればその成立を隠蔽する虚構の主張に縛られるわけではな い。啓示の特殊な局面としての伝承は、歴史学的にはラビのユダヤ教が紀元前四世紀か三世紀 から、紀元後二世紀までの間に辿ったプロセスの産物なのである。元来、諸宗教において受け 取られた神的啓示は当然のことながら、事実に即した明確で語りうる内容を持った具体的な知 らせであった。そのような啓示の担い手には、自分に授けられた知らせが持つ特定の性格と輪 郭のはっきりした内容を否認したり制約したりするなどということは、決して思い浮かばなか った。ユダヤ教のように、そのような啓示が書き留められ聖なるものとして承認される場合に は、啓示は元々そうした事実に即した具体的な知らせであり、それ以外の何物でもない。しか しそのような啓示と権威と、啓示を書きとめた聖書の権威とが認められるに従って、もちろん 本質的な変化が生じてくる。一方では、新しい歴史的状況が生まれると、権威として認められ た知らせを絶えず変化する情勢に合わせることが必要になる。他方で、その知らせを我がもの とした人間の生産性という自発的要素が、元来の限界を拡張する。こうして「伝承」が生まれ る。ここで「伝承」とは、きわめて組織化された社会のあらゆる具体的な関係において、その 言葉を有効とする了解のことである。前述のプロセスが始まると、いかにして啓示が具体的な 知らせとして保たれ、世代から世代へと伝承できるか ある ば、どのようにしてか、という問いが、ますます強力に持ち上がってくる。そこではもうすで に自発的要素が伝承の形成に入り込んでいる。このように新たな創造力が発揮される中で、文 書そのものの範囲も拡張し、新しい文書によるコミュニケーションが古いものと並存し、そう して元々の啓示に属するものと、後からの伝承に属するものとの間に、一種の無人地帯が作り 出される。これは例えばユダヤ教において、元来は啓示の性格を唯一要求していたトーラー (※ユダヤ教の律法)と、正典の他の文書とが並存した時に起きたことである。後者は、最初 はあくまで伝承の範囲内に含みこまれ、伝承の現れとみなされた。ただし後にはしばしば境界 線が移動し、正典そのものが聖なる文書として伝承に対峙し、この伝承は伝承で文書と口伝を 区別する同様のプロセスを繰り返すのである。 文書と口伝による伝承のこうした問題を、モリトールは見事に描いている。「文書は絶えず 流れてゆく時間を固定し、いつまでも消え去ることのない確たる筆跡の中に、はかなく消えて ゆく言葉を永続的な現在として表現する。この点で文書は、すべての伝承の中で最も優れた、 そして最も確実な手段である。それは正確で信頼度が高いゆえに(文書の方が湾曲が起こりに くいからである)、口伝による伝承よりも優先するに値するのは確かだが、文書化されたもの はいずれも現実の抽象的な一般像に過ぎず、生活が示すような具体的な規定や個々の詳細を全 く欠いており、それがゆえにあらゆる種類の誤解に曝される。そのために口から語り出される 言葉、ならびに修行や生活が、書かれた言葉に常に付き添って説明しなければならない。さも ないと書かれた言葉は、生彩や具体的内容を欠き、人々の心の中で死んだ抽象概念に留まって しまう。 近代では反省が生のすべてを呑みこもうとしていて、一切が死んだ抽象的な概念の学問に還 元され、また人間を理論だけで教育できると信じられているため、古くからあり事柄の性質か らして当然の、文書と発話、理論と実践の相互関係も、すっかり狂ってしまった。というのも すべての実践が理論化し、すべての口伝の遺産を文書化して、生活にもはや何も残さなかった ので、生活における真の実践ともども真の理論も失われてしまったからである。しかし古代の 世界では人間はまだ自然に即したもっと単純な関連の中にいたので、文書と発話、理論と実行 の、自然に即したあの関係も、はるかによく守られていたのである」。 ここで注視されているプロセスは、ユダヤ教においては第二神殿の時代に起きた。我々の考 察にとっては、トーラーが啓示された法として公布されたのは太古の時代なのか、それともも っと後になってからなのか、という問題は重要ではない。しかし状況が変化し、とりわけギリ シア世界が侵入してきたため、トーラーを承認していた元来は神権政治的な信徒の共同体に、 途方もない動揺が襲った。そん中で歴史現象としてのユダヤ教は、ユダヤ民族の相当数の他の グループ、一部は非常に活発なグループとの対決を通じて形成されて行き、伝承が新しい宗教 的価値として、そして宗教思想のカテゴリーとして、ますます強力になっていった。伝承は創 造的な力を表す手段である。成文トーラーに並ぶ伝承が現われ、それは紀元後一世紀頃から 「口伝トーラー」と呼ばれている。この伝承は、共同社会が文化財として所有し次世代へ伝え るものの単なる総体ではない。そうした総体から特に選びぬかれたものであり、宗教的儀式の 衣をまとい、際立っているのである。伝承は特定の事物や文章や洞察をトーラーとして宣言 し、そうしてそれらの啓示と結びつける。そうなると、唯一無比で明確に与えられ確たる輪郭 をもった言明の領域という、啓示の元来の意味が疑問視され、実り豊かであると同様に見極め がたい展開が始まるが、それは伝承の概念という宗教問題にとってきわめて啓発的である。 最初は、まるで両者つまり成文トーラーと口伝トーラーが並存しているかのように見える。 まるで権威の二つの異なる源泉、つまり文書で表すことができたものと、口伝に生きた言葉に おいてのみ伝えることができた、あるいは伝えることを許されたものとが、啓示そのものの中 に与えられているかのように見える。しかし間もなく見ていくように、ずっとそうだったわけ ではない。この口伝トーラーについては、ミシュナの『父祖の言葉』の冒頭で次のように言わ れている。「モーゼはシナからトーラーを受け取り、それをヨシュアに伝え、ヨシュアは長老 たちに、長老たちは預言者たちに、預言者たちは大シナゴーグの成員に伝えた」。大シナゴー グは一つの集団で、ペルシアの支配下で長い間、捕囚から戻った信徒を導いてきたと言われ る。ユダヤ史におけるこの漠然とした集団は、実際は歴史的な構成物と言ってよいだろう。 『エズラ記』と『ネヘミヤ記』に書かれたユダヤにおける物事の秩序に関する最新の聖書の記 録から、はるか後の世代の人々はそうした集団を紡ぎだしたのだろう。「トーラーの垣根」と いう概念、すなわちトーラーを確実に守るための予防措置の概念が、この集団にいたと想定さ れている時代に遡るにしても、口伝トーラーのドグマ的概念がその時代にまで遡るか否かは判 らない。いずれにせよ、口伝トーラーは紀元後一世紀にはすでに人口に膾炙していたのであ る。」 (ゲルショム ショーレム著『錬金術とカバラ』作品社 「ユダヤ教の宗教的カテゴリーとしての啓示と伝承」 P. 197 ~ 200) 上掲の引用文に書かれているのは、 日本における『古事記』成立の和銅五年(712)よりも五〜六百年以上前の出来事です。 さらに言えば、明治以降の皇国史観は、 朱子学を下地とした江戸期の水戸学による『大日本史』の受け売りですから 『古事記』を拠りどころにしてはいても練られてはおらず歴史的に底が浅いものです。 また、皇国史観、国家神道、明治政府復古主義の連中が何を目論んでいるのかは、 朱子学の書『近思録』などを読んでみればおおかたの予想がつきます。 もちろん、そんなことを主体にしても面白くもなんともないので、 復古主義者たちが植える草の根を根絶やしにしつつも、話を進めることにしましょう。 エルヴェ・ド・サン=ドニ (著), 立木鷹志 (翻訳) 『夢の操縦法』 (つづく)
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2020年09月27日 08時18分41秒
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