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2020年12月30日
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テーマ:老荘思想(128)
カテゴリ:道家思想

 
'Crossing the bridge' Zhejiang China
Photo by MelindaChan ^..^
images.jpeg
 
 
 
 

道家思想篇 119 老子 顯質第八十一


  「信言〔しんげん〕は美〔び〕ならず、
  美言〔びげん〕は信〔しん〕ならず。
  善者〔ぜんしゃ〕は辯〔べん〕せず、辯〔べん〕ずる者は善〔よ〕からず。
  知者〔ちしゃ〕は博〔ひろ〕からず、博〔ひろ〕き者は知〔し〕らず。
  聖人は積〔つ〕まず。
  旣〔ことごと〕く以〔もっ〕て人の為にして、
  己〔おのれ〕愈〃〔いよいよ〕有〔ゆう〕す。
  旣〔ことごと〕く以て人に與〔あた〕えて、
  己〔おのれ〕愈〃〔いよいよ〕多し。
  天の道は、利〔り〕して害せず。
  聖人の道、為〔な〕して爭わず。」
 
 
   信言不美、美言不信。
   善者不辯、辯者不善。
   知者不博、博者不知。
   聖人不積。
   旣以為人、己愈有,
   旣以與人、己愈多。
   天之道、利而不害。
   聖人之道、為而不爭。
   
  
  
   (The manifestation of simplicity)
   Sincere words are not fine; fine words are not sincere. Those who are skilled (in
  the Dao) do not dispute (about it); the disputatious are not skilled in it. Those who
  know (the Dao) are not extensively learned; the extensively learned do not know it.
  The sage does not accumulate (for himself). The more that he expends for others,
  the more does he possess of his own; the more that he gives to others, the more
  does he have himself.
  With all the sharpness of the Way of Heaven, it injures not; with all the doing in the
  way of the sage he does not strive.
   ( Daoism -> Dao De Jing
 
 
 
 
 「真実の言葉は美しく飾られてはいない。美しく飾られた言葉は真実がない。
 真に善き行ないをする者は多弁を弄さず、多弁を弄する者は、実は善行をしていない者である。
 真に良く知っている者は、博識者ではない。
 雑多な知識を博く持っている者は、実はどれ一つとても真に良く知ってはいない。
 (真に尊いものは真実と謙虚さである。)
 聖人は自分のために蓄積しない。ことごとく人々のために尽くす。
 かくも真実を尽くす故に、人々から感謝され、
 かえって自分がいよいよ多く所有するようになる。
 聖人は自分のものをことごとく人に与える。
 その結果は、前と同様、かえって自分がいよいよ多く持つようになる。
 天の道は万物を利するのみで害することがない。
 同様に、聖人の道はすべての人々のためにし、しかもその功名を人と争おうとしない。
 (それだからこそ、能く大事業を遂行し得て、天下の王となれるのである。)」
 
 (新釈漢文体系 7 『老子 荘子 上』P.130 明治書院発行 )
 
 
 
 
 『言葉が真理をあらわしていると、その言葉は美しくなく、
  言葉が美しいと、その言葉は真理をあらわしていない。
  本当に立派な人は言葉で議論せず、
  言葉で議論する人は立派ではない。
  本当の知者は博識(はくしき)でなく、
  博識の人は本当に知っていない。
  賢者は蓄(た)めこむことをしない。
  他人のために出し尽くすと、得るものは多くなり、
  他人のために分けてやると、得るものはさらに多くなる。
  天の「道」は善いことをなすが害を加えない。
  賢者の「道」は行いはするが名声を求めない *。
 
  * 王弼(おうひつ)の説明では、この行の意味は第二章の
  「達成されても、名声を求めるものはいない」という意味と同じだとする。
  これは老子の作品の結論とも言える。
  この行の本当の意味をわかるには、
  前存在論的経験についての根本的哲学を深く理解する必要がある。
 
   注釈
  
  ハイデッガーの『芸術作品の起源』によると、
  
  芸術作品にあって、実在の真実は、作ることにおかれた。
  「おく」ということは、ここでは場所をとどまらせることを意味する。
  ある特殊な実在、百姓の一足の靴は作品中、その有の光の中にあらわれてくる。
  有るものの有はその輝きの不変へと入ってくる。
  芸術の本質は作品にあらわれている有の真実である。
  しかし、今まで芸術は真実とは関係をもたずに、
  美しいものや美に関係をもたなければならなかった。
  
  ハイデッガーが有の真実と述べているものは、美そのものでない美の起源である。
 「道」の哲学者たちがめざすものは、この美の起源についてである。
 この章で老子はいう。

  言葉が美しいと、その言葉は真理をあらわしていない。
  
  真理は言葉の美しさの源である。それは言葉そのものの美しさではない。
 さらに、それは蓄えるようなものではない。蓄えをしなければ、人の心は束縛から自由になる。
 この考えは『金剛経(こんごうきょう)』でも述べられている。
  
  私の心を脱し、どこにもとどまるな。
  
  たぶん、老子の求める心は仏教学者の求める心と同じである。
  焦肱(しょうこう)の注釈でいう。
  
  批評家のうちで、老子の作品は人々を夢中にさせ、
  教えの正しさを認めさせるものをもっているというものがいる。
  だから、その到達(とうたつ)は美に近いものだ。
  彼の作品は万物の実在を完全に分析する。
  だから、ことばの議論によっている。
  彼があらゆる出来事の変化を調べるとき、変化のあらゆる側面を調べる。
  だから、その到達はあらゆるものを包んでいるのだという。
  しかし、これらの批評家は美そのものでない真理があることを知っていない。
  つまりことばの議論によって達せられない善があり、博識でない直観があることを。
  どうしてだろうか。
  五千語が表しているものは蓄(たくわ)えのない「道」のことである。
  蓄えがないということは、どこにもとどまらないという心のことである。
  蓄えは蓄えでないことを意味し、言葉は言葉でないことを意味する。
  もし、蓄えの「道」があったとして、それによって、世の中で争えば、
  しゃべればしゃべるほど人々の話はますます枯渇(こかつ)していく。
  このような人は天の「道」に従っていないのである。
  天の「道」に適うということは他人のためになるということであり、
  他人に害を与えるということではない。
  賢者が「道」に適えば役立つことはするが争うことはしない。
  我々の学び方がこれらの本質的なものに心をおくならば、
  そのとき、老子の作品研究の半分以上は完成したことになるだろう。
  
  この注釈は簡潔で本質的なことを述べており、『道徳経』研究の結論といえよう。
 理解するのは易しいが到達するのは難しいのである。
  (後略)』
 
 (張鍾元 著 上野浩道 訳『老子の思想』P.327 ~ 330 講談社学術文庫)
 
 
 
 
 
 「    文化への懐疑(かいぎ)と批判は、競争と進歩に対する批判と重なっている。他人をお
 さえて勝利者となること、いつも先頭をきって前へ前へと進むこと、それもまた人間の知識や欲
 望の増大と関係している。そして、ある意味で現代病といってもよい現象である。
  人びとは眼前のことにとらわれて、他人をおしのけて先へ先へと急ぐ。何を求めて争うのか、
 何を進歩と考えているのか。その求めているものが、本当に求めるだけの価値があるのか。進歩
 と考えられているものが、本当に進歩であって人びとの幸福に連なるものなのか。そうした反省
 を怠(おこた)って、ただ時代の価値観に動かされて、がむしゃらにあくせく動きまわっている。
 不安と焦燥(しょうそう)にかられ、肉体は疲れ、自分が不幸であるばかりか、他人をも不幸に
 おとしいれ、そして苦しみのなかで無意味に死んでいく。
  何がそうさせているのか。それは、やはり自己の本来の自然性に目覚(めざ)めないからだと、
 老子は考える。
  老子はここで、柔弱(じゅうじゃく)謙下(けんか)という主張を掲(かか)げる。おれが、わた
 しがといって、人の上に出ることを人びとは好む。そうしなければ、自分がつぶされてしまうと
 考える人もいる。たといそうでなくても、自分の存在を他人に知ってほしいと望む人は多い。み
 な、自分というものにとらわれて、競い争うのを当然と心得ているのである。さらりと無私に
 なって、ものやわらかく弱々しく、人にへりくだって自然に生きていく。周囲に融(と)けこん
 で流れていくのである。そこから、ものごとの本質がみえてくる。そして、あくせくと進歩を求
 めて争うことが、いかに愚かな無意味なことかわかってくるのである。
 「上善(じょうぜん)は水の如し」    最高の善とは水のはたらきのようなものだと、老子は水の
 徳をたたえる。「水は万物のために役立ちながら、競い争うことがなく、人びとがさげすむ低い
 場所にとどまっている。そこで、『道』のはたらきに近い」(第八章)。
  万物の生長を助ける大きな役割を果たしながら、低いほうへと流れてさりげないようすでい
 る。ここが模範にしたいところである。「功成りて居(お)らず、 立派な成果があがっても、
 その栄光に居すわらない  」(第二章)、「仕事をやりとげたなら、さっさと身を退く」(第
 九章)、それが処世上の理想とされている。水はその模範であった。
  水の徳としては、その柔弱(じゅうじゃく)が賛美されている。「天下に水より以上に柔軟で
 弱々しいものはないが、それでいて堅く強いものを攻撃するには、これに勝るものはない。柔弱
 はかえって剛強に勝つのだ」という(第七十八章)。
  肩をいからせた突っぱりは強そうにみえるが、実はもろい。身構(みがま)えていて人を威圧
 (いあつ)して、その上に出ようとするような強(こわ)ばった姿勢では、やがて破滅と死が待
 ちうけるだけである。「堅強者(けんきょうしゃ)は死の徒(なかま)」である。そして「柔弱
 者は生の徒」、柔らかい草木の芽が新しい生命にあふれているように、柔軟な弱々しいものこそ
 が生きのびるのである(第七十六章)。
  
  ただ、ここで気になるのは、「柔弱はかえって剛強に勝つ」といわれていることである。競争
 そのものを否定しているのではなく、競争の方法を問題にしているだけではないが、ともみえ
 る。謙下のほうにも同じ疑問がある。「聖人はわが身を人の後において、それでかえって人に推
 されて先だつことになる」(第七章)というが、これも、先頭になることを予想して手段的に後
 になる、と取れないこともない。「無為(むい)でいて、それで万事が立派に成しとげられる」と
 いうのも、同じである。
  老子は世故(せこ)に長(た)けた老獪(ろうかい)な知恵者として、結局は、この世俗世界での成
 功者を目ざしたということであるのか。実際、老子にはそうした一面がないわけではない。しか
 し、もしそれだけなら、老子は権謀(けんぼう)術策(じゅっさく)の人ということで、終わってし
 まう。事実はもちろんそうではない。
  老子と荘子(そうし)との違いは、どちらも自然思想といってよいものでありながら、老子で
 はこの現実の世俗世界についての関心が強いという点である。荘子のほうは、世俗をこえた自然
 世界に飛びこんでそれに合一するという宗教的な立場が強いが、老子はそうした宗教的神秘的な
 面を持ちながら、絶えず現実世界とおの関係を考えているというところに、その特色がある。世
 間的なずる賢(がしこ)さともみえるのは、そのためである。無為(むい)であれば万事がうま
 く運ぶとか、柔弱であれば強い者に勝てるとかいうのは、世俗の立場に降りてきて大衆をひきつ
 けるための言いかたであって、つまり、それだけ世俗に対する親切な配慮が濃厚だということで
 ある。
  荘子にはそれがない。もっと高踏的(こうとうてき)である。老子の思想が愚民(ぐみん)の
 専制政治に利用されたり、兵法のかけひきをささえるものとして応用されたり、さらには現世的
 宗教として道教(どうきょう)で重要な役割を果たしたりしたのは、みなこのためであろう。
 
  老子の思想の深みは、「道」の思想によって明らかになる。老子の「道」は、それまでとは
 まったく違った新しい意味を帯びて登場した。それまでの儒家(じゅか)の道は、道義的な実践
 (じっせん)の拠(よ)り所として、はっきりと指(さ)し示された道であった。しかし、老子の
 「道」は、見えもせず聞こえもせず(第十四章)、恍惚(ぼんやり)としてとらえどころがなく
 (第二十一章)、したがって名づけようもないものである(第一章)。だから「道」というのも
 仮のよび名にすぎない。「無」とか「無名」とかよばれるのもそのためである(第四十章・第四
 十一章・第三十二章)。
  しかし、これこそが、この宇宙の全体をつらぬく唯一絶対の根源者として、大きなはたらきを
 とげている「一」であり、「大」である(第三十九章・第二十五章)。そして、天地万物(ばん
 ぶつ)を生み出す始原としてまた「母」ともよばれている(第五十二章)。老子にとって、これ
 こそが真実の世界であった。世俗の現象世界にとらわれてはいけないというとき、老子はこの
 空々漠々(くうくうばくばく)たる無限定無制約の「道」の世界に入れといっているのである。
 それは天地の根源への復帰であった。
  老子は復帰ということの重要性をしばしば力説する。
 「いったい物は盛んに繁茂(はんも)しているが、それぞれにその生まれ出た根もとに帰ってい
 くものだ。根もとに帰るのは深い静寂(せいじゃく)に入ることだといわれ、それはまた本来の
 運命に立ち戻ることだともいわれる」(第十六章)。
  哲人による世界の真相の洞察(どうさつ)である。万物は生成をつづけてやまないが、それは
 ただ真っ直ぐに伸びていくだけではない。実は生成の始原へと復帰する動きでもある。万物が生
 まれ出てきたその元の始原、定かではないけれども無限の深みをもった静けさの世界。それこそ
 「道」の世界そのものでもあるのだろう。現象に流されることをやめて、人はこの根源に復帰す
 べきだといわれる。
 「無限定の茫漠(ぼうばく)とした状態(無極)に復(かえ)ろう」「純朴な素材の状態(樸
 〔あらき〕)」に戻ろう」、そして「純真な赤ん坊の状態に復ろう」。柔弱謙下は実はそれを可
 能にしてくれるものだ、という(第二十八章)。
 「道」は、老子の思想の核心である。復帰は、その「道」の立場への合一であった。「道」を体
 得してそれとの冥合(めいごう)を果たすことが、老子の強調する窮極の目標であった。欲を去
 り知を棄(す)て学を絶って柔弱謙下で暮らすこと、そして始原へとたち帰って赤ん坊のように、
 素朴な樸のようになること、それらはみな「道」との合一に連なっている。
 「道」が何であるかということは、本来言いあらわせないものである。それは名をこえ、論理を
 こえたものであった。「道」の説明が曖昧(あいまい)模糊(もこ)として、時に詩的幻想的な
 表現になっているのは、むしろそうした形でしかあらわせないからであった。ただ、それは、
 はっきりしないけれども、この現象世界を根底でささえている根源的な何かだということは、確
 かである。万物生成の始原として、あるいは、万物の存在をささえる秩序原理として、それは、
 この現象世界に即して活(い)き活(い)きとはたらいている。
  老子はそれを人びとに指し示して、それとの冥合をすすめるのである。世俗に縛(しば)られ
 て追いまくられている生活をやめよ。それがどんなに無意味なものか、「道」に目覚(めざ)め
 た人はそれを悟る。そして、そこから本当の生活がひらけてくるのである。」

 (金谷治 著『老子』講談社学術文庫
  解説「柔弱謙下」「現実への関心」「この世界をささえるもの」 P.255 ~ 261 )

 
 
  (『老子道徳経』了)





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Last updated  2020年12月31日 19時32分14秒



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