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( テモちゃん立ったまま寝ている 2015年12月19日 あきてもさんのブログ より) こうとしか 生きようのない人生がある せめて消えない 轍(わだち)の残そうか (アルバム『ベスト・セレクション[山河] 堀内孝雄/小椋佳 作品集』他・所収) 1. 山河 2. 愛しき日々 3. 孤高の鷹 4. 波の調べに 5. 言い古されても (ニューバージョン) 6. クラシックを聴きに行った 7. アメリカ橋トワィライト 8. あなたが美しいのは 9. 憧れ遊び 10. 遥かな轍 11. 君の夢を見たよ 12. 忘我奪魂 13. 泣かせて 14. 少年達よ 15. 愛しき日々 (オリジナル・カラオケ) 16. 山河 (オリジナル・カラオケ) 田原坂(たばるざか) [DVD] 夢見の技術を考える 脱獄計画(仮)篇 38 COVID-19「やったか?*」そして “志” を考える 20 * やったか!? (やってない)とは【ピクシブ百科事典】 https://dic.pixiv.net/a/やったか%21%3F 先日DCコミックス作品劇場映画 『ワンダーウーマン 1984 "Wonder Woman 1984" 」をDVDで見た。 ネタバレは避けるが『エンゼルハート "Angel Heart"』(1987) を思い出した。 妙な〝願掛け〟はかなり危険な行為かもしれない。 なぜなら叶えてくれる相手(外注先)が誰なのか皆目わからないのだから。 スピリチュアルとオカルトとホラーの境界線を誰が決められるだろう。 霊能者や魔術系の人たちは修行を重ねて、 こうとしか生きられないレベルでやっているのだ。 ズブの素人に同じ真似ができるかと聞かれたらできないし真似をしてはいけない。 【追記】 その後試しに「引き寄せの法則 悪魔崇拝」をインターネット検索してみた。 出るわ出るわ、引き寄せの法則と秘密結社(!)の関連性を述べるページが出てきた。 たしかに引き寄せの法則や潜在意識の導入法は魔術の簡易劣化版と言ってよい。 情報の発信者らによれば「6」や「18(666)」は悪魔がらみ、 「21」は統一(21)教会の数字なのだそうだ。 ここまでくると陰謀論・陰謀説の類である。 ただし、カルト教団が多種多様なエサを使って信者勧誘の触手を伸ばしているのも事実だ。 マーフィーの潜在意識利用の翻訳者〝大島淳一〟の正体は故・渡部昇一で、 渡部は長年、統一教会の御用学者でもあった。 渡部は魂を統一教会(※パトロン)に売り渡してしまったため、 富と名声を得る代償として日本戦後史の事実を語る能力を失ってしまったのだ。 自己啓発や引き寄せの法則系の人たちは〝ステージ〟という言葉を好んで使う。 子ネズミ・孫ネズミを増やせば親ネズミの階層や〝ステージ〟が上がる、 ネズミ講やマルチ商法のような裏のスピリチュアル・システムがあったらコワイ (エイブラハム引き寄せ術のジェリー・ヒックスはアムウェイの一員)。 願望引き寄せ術を〝幸運の前借り〟だという発信者たちもいる・・・・・・。 【追記以上】 我々一般人は、一点集中であるとか、回数・所要時間・密度を増やすなど、 制御可能な方法を実践するのが身のためである。 心底望んでもいないのに、無理をして「明確な目標」を立てる必要はあるまい。 かつて当ブログ 2020年07月26日掲載記事から 目標の書き方をウダウダ考えていたのであるが、 2020年08月30日掲載分にて 〝他の人に明かしたくないメモなどを書き記すにあたり、 情報カードやポストイットなどをみられる可能性があるなら 普通の人では読めない文字、意味のわからないことばで書けばよい。 たとえば、自作の速記文字、ルーン文字、くずし字、などを用います。 「ルーン文字による古英語表記」を解読できる日本人は滅多といません。〟 などと書いたあたりで結局ウヤムヤに終わってしまった。 他人に自分の意図を覗かれぬよう警戒していたことは明白だ。 そして愚拙自身が目標を紙に書くことそのものを扱いかねて、 途中で投げてしまったのである。 〝 バガヴァッド・ギーター 第十六章 聖バガヴァッドは告げた。 無畏(むい)、心性のの清浄、知識のヨーガに専念すること、布施、自制、祭祀、ヴェーダ学習、苦行、廉直、 不殺生、真実、怒らぬこと、捨離、寂静、中傷しないこと、生類に対する憐愍(れんびん)、貪欲でないこと、温和、廉恥、落着き、 威光、忍耐、堅固(充足)、清浄、敵意のないこと、高慢でないこと、以上は神的な資質に生まれた者に属する。 偽善、尊大、高慢、怒り、粗暴、無知、以上は阿修羅(アスラ)的な資質に生まれた者に属する。アルジュナよ。 神的な資質は解脱をもたらし、阿修羅的な資質は束縛をもたらすとされる。アルジュナよ、嘆くことはない、あなたは神的な資質に生まれた。 この世界には二種の万物創造がある。すなわち、神的なものと阿修羅的なものである。神的なものはすでに詳しく説かれた。アルジュナよ、阿修羅的なものを私から聞け。 阿修羅的な人は、〔正しい〕活動とその停止を知らない。彼らには、清浄さも、正しい行動様式も、真実も知らない。 彼らは言う。 彼らはこの見解に依存し、自己を失い、小知であり、非常に残酷な行為をし、有害であり、世界を滅ぼすために出生する。 彼らは満たし難い欲望にふけり、偽善と慢心と酔いに満ち、迷妄のために誤った見解に固執し、不浄の信条を抱いて行動する。 彼らは、限りない、死ぬまで続く思惑にふけり、欲望の享受に没頭し、「これがすべてだ」と確信する。 彼らは幾百の希望の罠に縛られ、欲望と怒りに没頭し、欲望を享受するために、不正な手段によって富を蓄積しようと望む。 「私は今日これを得た。私はこの願望を達成するであろう。この財産は私のものだ。この財産もまた私のものとなろう。 私はあの敵を倒した。他の敵も倒してやろう。私は支配者である。享受者である。私は成功し、有力者で、幸福である。 私は富み、高貴な生れである。他の誰が私に匹敵するか。私は祭祀を行おう。布施をしよう。大いに楽しもう。」 彼らは無知に迷わされてこのように言う。 彼らは様々に心迷い、迷妄の網に覆われ、欲望の享受に執着して、不浄の地獄に堕ちる。 彼らは自惚れ、頑固で、財産に驕(おご)り酔いしれる。偽善的に、〔正しい〕教令によらず、名前だけの祭祀を行う。 彼らは我執、暴力、尊大さ、欲望、怒りを拠り所にする。妬み深い彼らは、自己と他者の身体に宿るこの私を憎んでいる。 憎悪する彼らは、残酷で最低の人間であり、不浄である。私は彼らを、輪廻において、絶えず阿修羅的な胎内に投げ込む。 彼らは阿修羅的な胎に入り、生まれるごとに迷妄に陥り、私に達することができず、それから最低の帰趨(きすう)に赴く。 欲望、怒り、貪欲、これは自己を破滅させる、三種の地獄の門である。それ故、この三つを捨てるべきである。 アルジュナよ、この三種の暗黒(タマス)から解放された人は、自己(アートマン)にとって最善のことを行い、それから最高の帰趨(解脱)に達する。 教典の教令を無視し、欲望のままに生活する者は、成就(シッディ)に達しない。幸福にも、最高の帰趨にも達しない。 それ故、なすべきこととなすべきでないことを決定する場合に、教典はあなたの典拠である。教典の教令に説かれた行為を知って、あなたはこの世で行為をなすべきである。〟 (上村勝彦 訳 岩波文庫『バガヴァッド・ギーター』P.122 ~ 126) 〝 Bhagavad Gita Chapter 16 TEXTS 1-3: The Supreme Personality of Godhead said: Fearlessness; purification of one’s existence; cultivation of spiritual knowledge; charity; self-control; performance of sacrifice; study of the Vedas; austerity; simplicity; nonviolence; truthfulness; freedom from anger; renunciation; tranquillity; aversion to faultfinding; compassion for all living entities; freedom from covetousness; gentleness; modesty; steady determination; vigor; forgiveness; fortitude; cleanliness; and freedom from envy and from the passion for honor – these transcendental qualities, O son of Bharata, belong to godly men endowed with divine nature. TEXT 4: Pride, arrogance, conceit, anger, harshness and ignorance – these qualities belong to those of demoniac nature, O son of Pṛthā. TEXT 5: The transcendental qualities are conducive to liberation, whereas the demoniac qualities make for bondage. Do not worry, O son of Pāṇḍu, for you are born with the divine qualities. TEXT 6: O son of Pṛthā, in this world there are two kinds of created beings. One is called divine and the other demoniac. I have already explained to you at length the divine qualities. Now hear from Me of the demoniac. TEXT 7: Those who are demoniac do not know what is to be done and what is not to be done. Neither cleanliness nor proper behavior nor truth is found in them. TEXT 8: They say that this world is unreal, with no foundation, no God in control. They say it is produced of sex desire and has no cause other than lust. TEXT 9: Following such conclusions, the demoniac, who are lost to themselves and who have no intelligence, engage in unbeneficial, horrible works meant to destroy the world. TEXT 10: Taking shelter of insatiable lust and absorbed in the conceit of pride and false prestige, the demoniac, thus illusioned, are always sworn to unclean work, attracted by the impermanent. TEXTS 11-12: They believe that to gratify the senses is the prime necessity of human civilization. Thus until the end of life their anxiety is immeasurable. Bound by a network of hundreds of thousands of desires and absorbed in lust and anger, they secure money by illegal means for sense gratification. TEXTS 13-15: The demoniac person thinks: “So much wealth do I have today, and I will gain more according to my schemes. So much is mine now, and it will increase in the future, more and more. He is my enemy, and I have killed him, and my other enemies will also be killed. I am the lord of everything. I am the enjoyer. I am perfect, powerful and happy. I am the richest man, surrounded by aristocratic relatives. There is none so powerful and happy as I am. I shall perform sacrifices, I shall give some charity, and thus I shall rejoice.” In this way, such persons are deluded by ignorance. TEXT 16: Thus perplexed by various anxieties and bound by a network of illusions, they become too strongly attached to sense enjoyment and fall down into hell. TEXT 17: Self-complacent and always impudent, deluded by wealth and false prestige, they sometimes proudly perform sacrifices in name only, without following any rules or regulations. TEXT 18: Bewildered by false ego, strength, pride, lust and anger, the demons become envious of the Supreme Personality of Godhead, who is situated in their own bodies and in the bodies of others, and blaspheme against the real religion. TEXT 19: Those who are envious and mischievous, who are the lowest among men, I perpetually cast into the ocean of material existence, into various demoniac species of life. TEXT 20: Attaining repeated birth amongst the species of demoniac life, O son of Kuntī, such persons can never approach Me. Gradually they sink down to the most abominable type of existence. TEXT 21: There are three gates leading to this hell – lust, anger and greed. Every sane man should give these up, for they lead to the degradation of the soul. TEXT 22: The man who has escaped these three gates of hell, O son of Kuntī, performs acts conducive to self-realization and thus gradually attains the supreme destination. TEXT 23: He who discards scriptural injunctions and acts according to his own whims attains neither perfection, nor happiness, nor the supreme destination. TEXT 24: One should therefore understand what is duty and what is not duty by the regulations of the scriptures. Knowing such rules and regulations, one should act so that he may gradually be elevated. 〟 Srimad Bhagavad Gita in English https://srimad-bhagavad-gita.com/english/chapter-16/ 一般的に、日本では「古代バラモン教は差別をする」というイメージが強く 仏教の方が平等で革新的だと考えられている。 その一方で、『バガヴァッド・ギーター』で挙げられる 阿修羅(アスラ)的な生き方をしている人間たちを羨〔うらや〕み、 有り難がる傾向が強い。 これらの人種は難しい哲学など省みないが 宗教や魔術を薄めに薄めた簡易劣化版スピリチュアルなら喜び勇んで手を伸ばすようだ。 簡易版スピリチュアルのいう〝ハイヤーセルフ〟とは〝ブラフマン(梵)〟である。 〝エゴ(我)〟とは〝アートマン(自己)〟である。 ところが西洋社会、ユダヤ・キリスト教圏では〝輪廻〟の概念がない。 〝カルマ(業)〟も〝ニルヴァーナ(涅槃・梵)〟も〝解脱〟もない。 いわゆる「いいところ」だけ取って 〝ハイヤーセルフ〟だなんだと言っているわけだから情報に重大な欠けがある。 上記『バガヴァッド・ギーター』の引用文の、 「私は今日これを得た。私はこの願望を達成するであろう。 この財産は私のものだ。この財産もまた私のものとなろう。 私はあの敵を倒した。他の敵も倒してやろう。私は支配者である。 享受者である。私は成功し、有力者で、幸福である。 私は富み、高貴な生れである。他の誰が私に匹敵するか。 私は祭祀を行おう。布施をしよう。大いに楽しもう。」 の部分だけ引っこ抜けば、「肯定的な自己暗示(アファメーション)」になるではないか。 上掲の言葉が阿修羅(アスラ)的なものだと書かれているとはまったく知らないで、 このような自己暗示をつぶやいて上機嫌になっている人も少なくないだろう。 (いったい誰が流行〔はや〕らせたのだ、こんなもの。 修行していない一般人に〓〓召喚の呪文を広めたのと同じではないか) まったく余計なことに気づいてしまったものだ! 願望実現の自己暗示をしている人々から、 「なんだ! 人がいい気分で願望を実体化しているのに水をかけやがって!」 と白眼視ならぬ邪眼視されるに違いない。 これからアファメーションやイメージングを試してみようか考えている人は、 願望実現法を現在実行している人々が今後どうなっていくか、 その結末をよく見てから行動に移しても決して遅くない。 スピリチュアル的な波動や波長の法則からすれば、 同じ波長のもの同士としか呼応しない( らしい)というから、 その理屈が正しいのなら当ブログなど絶対に見ないであろう。 こちらとしては、阿修羅的な選択をした人々の変容ぶりが非常に気になるので もう少々、あたりを見廻してみるつもりだ。 〝(前略) 啓示とは魂の披露だ。世間では啓示は運勢の占いだと考えている。悟性は、魂が過去に与えた神託のなかに卑俗な問題に対する解答を探し求め、人間はどれくらい生きるものか、どんなことを手がけたらいいか、どんなひとを仲間にしたらいいかを、おまけに名前と日付けと場所まで、神の口から知ろうとする。だが錠をこじあけたりしてはならぬ。こういう低級な好奇心は抑えなければならぬ。言葉を使った解答はごまかしだ。本当は問いかける疑問に答えてなどいないのだ。自分の舳先(へさき)を向ける国々のことを言葉で語ってもらおうなどと思ってはならぬ。語ってもらったところで何ひとつ語ってはくれないし、それに明日になればみずからその地に到着し、住んでみることによって知ることになる。世間の人びとは魂の不滅、天界での仕事、罪びとの境遇というようなことについてたずねる。こういうたぐいの質問に、イエスが答えをのこしていってくれたとさえ夢想する。ただの一瞬たりともあの崇高な霊が、彼らふぜいのいなかなまりで語ったためしはない。真理、正義、愛など、魂のさまざまな属性には、不易(ふえき)の理念が本質的に結びついている。イエスはこういう道徳的情感に身をひたし、卑俗な運勢などには心を向けず、ひたすらこれら情感の表現だけに心をそそいで生き、これら魂の属性の本質から永続の理念を分離したことはかつてなく、魂の永続についてひとことでも語ったことがない。道徳的要素から永続を引きはなし、魂の不滅をひとつの教義として教え、それをさまざまな証拠によって主張する仕事は、彼の弟子たちにまかされたのだ。不滅の教義がそれだけきりはなして教えられる瞬間、すでに人間は堕落している。愛が満ちわたり、謙虚に慕情を燃やすとき、持続などということは問題にならない。霊感を得たひとならこういう問題を問うことはないし、こういう証拠を得ようとして身を落とすこともない。魂はおのれ自身に忠実であって、魂が広く満ちわたっている人間は、限りないこの現在からさまよい出て、限りあるものになりそうな未来に向かうことはできなからだ。 未来についてわれわれがしきりに問いたがるような疑問は、つまり罪の告白にほかならない。神はそういうことには答えない。言葉を使った答えなど、ものに関する疑問には答えられない。明日の事実にヴェールがおりるのは、専横な「神の命令」ではなくて、人間の本性のためなのだ。魂は、因果の暗号以外には、どんな暗号もわれわれに解読することを許してくれないからだ。さまざまな事件をおおい隠すこのヴェールによって、魂は人間の子どもたちにきょうという日に生まれ生きよと教える。これら感覚の疑問に答えてもらうたったひとつの方法は、低級な好奇心をすっかり放棄し、われわれの本性を秘密のさなかに運びこんでくれる存在の潮流を受けいれて、仕事をし生活をし、ただひたすらに仕事をし生活することだ。そうすれば何ひとつ気づかぬうちに、前進をやめぬ魂がひとりでに新しい状態を築き、作り上げてしまっているし、問うも答えるもひとつの答えになっている。 (後略)〟 (酒井雅之 訳『エマソン論文集 下』岩波文庫「大霊」P.24 ~ 26 ) 〝Revelation is the disclosure of the soul. The popular notion of a revelation is, that it is a telling of fortunes. In past oracles of the soul, the understanding seeks to find answers to sensual questions, and undertakes to tell from God how long men shall exist, what their hands shall do, and who shall be their company, adding names, and dates, and places. But we must pick no locks. We must check this low curiosity. An answer in words is delusive; it is really no answer to the questions you ask. Do not require a description of the countries towards which you sail. The description does not describe them to you, and to-morrow you arrive there, and know them by inhabiting them. Men ask concerning the immortality of the soul, the employments of heaven, the state of the sinner, and so forth. They even dream that Jesus has left replies to precisely these interrogatories. Never a moment did that sublime spirit speak in their patois. To truth, justice, love, the attributes of the soul, the idea of immutableness is essentially associated. Jesus, living in these moral sentiments, heedless of sensual fortunes, heeding only the manifestations of these, never made the separation of the idea of duration from the essence of these attributes, nor uttered a syllable concerning the duration of the soul. It was left to his disciples to sever duration from the moral elements, and to teach the immortality of the soul as a doctrine, and maintain it by evidences. The moment the doctrine of the immortality is separately taught, man is already fallen. In the flowing of love, in the adoration of humility, there is no question of continuance. No inspired man ever asks this question, or condescends to these evidences. For the soul is true to itself, and the man in whom it is shed abroad cannot wander from the present, which is infinite, to a future which would be finite. These questions which we lust to ask about the future are a confession of sin. God has no answer for them. No answer in words can reply to a question of things. It is not in an arbitrary "decree of God," but in the nature of man, that a veil shuts down on the facts of to-morrow; for the soul will not have us read any other cipher than that of cause and effect. By this veil, which curtains events, it instructs the children of men to live in to-day. The only mode of obtaining an answer to these questions of the senses is to forego all low curiosity, and, accepting the tide of being which floats us into the secret of nature, work and live, work and live, and all unawares the advancing soul has built and forged for itself a new condition, and the question and the answer are one. 〟 (Ralph Waldo Emerson Essays: First Series 'The Over-Soul' 1841 ) (つづく)
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2021年12月26日 11時21分30秒
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