熊澤蕃山『集義和書』卷第六「心法図解」 一一三 悟道
悟道 □の◯をはなれて高き悟道とするものは、見所〔けんじょ〕のみにして用をなざざることを示す。□◯は理・気也。理・気はあるときは共にあり、はなるべからず。はなるる時は、□み実理ならず、◯も真気ならず。□に見性〔けんしょう〕を書するものは、異端といえども、寂然不動〔せきぜんふどう〕・無欲・無為の性〔しょう〕を見たる事は一也。□は無の至極なり。聖学にはあ、其の無をよく窮〔きわ〕めたる故に、惑〔まど〕いなし。異学には、無をいえども、無を窮めつくさざる故に、さとりたる所に即ち惑いあり。造化の神理を見そこないて、天地をも輪廻と見たり。故に曰く、儒学には天道と云いて大なる事をすれども、天地の道ともに惑いなり。故に仏氏は太虚を出〔い〕で、陰陽をはなるると云えり。太虚外なし、こえ出〔い〕づべき所なし。亦〔また〕輪廻なし、はなるべきものなし。ただ□の寂然不動・無欲・無為にしてあらわれず、あとなきの真を見て、仏性とし、ここに至って不生不滅なるを、成仏とし、陰陽生々の気をはなれて二度〔ふたたび〕生れず子孫なきを以て、出離生死〔しゅつりしょうじ〕とするなるべし。造化は無尽蔵にして無中より生ず。生ずるものは消えず、行くものはかえらず。輪廻と云う事なし。無始無終と云うべし、不生不滅と云うべからず。□の前後あらわれず、形象声臭〔けいしょうせいしゅう〕だになければ、亦〔また〕滅すると云う事もなきを、不生不滅といえるなるべし。