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テーマ:ささやかな幸せ(6740)
カテゴリ:良質な生活
夏の疲れが、体の周りに寄り添うようにまとわりつく頃となりました。 冷房の為かなんだか体が重たいとか、胃腸の調子が優れない等など・・・、家族それぞれに疲れを身にまとい、残りの夏を精神力で乗り切らねばと思い過ごしています。 4月から「週5通のお手紙を書く」という事を、暮らしの課題にして続けてきました。 昨日頂いたお返事は、96歳と80歳を越える二人の大伯母からの物。 お一方からのお手紙には、未だに実家の事が思い出され、幼い日の夢を見るという事が書いてありました。 もう一方のお手紙には、筋萎縮症になってしまい、物を食べる事も水を飲むことも出来なくなってしまったというご報告。 そして、そのお二方のお手紙には、共通して「お手紙をいただけて嬉しかった。」という事と、「育ち行くまぁちゃんの元気を祈る」という事が書かれていました。文字からは、この夏の疲れが感じられるような、力の無さが伝わってきます。 インターネットや携帯電話が普及して、手軽に、敏速に用件のやり取りができるようになったのはとても有難いし、普段のやりとりは「mailを使って」という物も多いのだけれど・・・・。 でも、お手紙のやり取りは、また別の喜びを感じます。 ポストにお手紙を入れるとき、「無事届きますように」とお祈りして投函する。 自宅の郵便受けにお手紙が入っていたら、ワクワクしながら部屋まで持って帰り、まず何を置いても一番にお葉書を見たり、封を開けたり・・・・。 文字から、文面から、その方の人となりを思い出し、読み返し、懐かしさと驚きに浸る時間。 紙が高価だった昔には、葉っぱに書いた物をやり取りしたから葉書だとか・・・・。 そんなに昔から長い間、お手紙のやり取りが廃れる事無く続いてきたのは、用件のやりとりはもちろんの事、そこに付随する「想い」が何物にも変え難かったからではないでしょうか? writing 書く eーmaiが通信手段のひとつになってから、一般の人も文章を書くのが上手くなったなと感じいるこのごろだ。 ファクシミリで伝えたい事、相手の声を聞きながら電話で伝えたい事、葉書や手紙で伝えたい事、それぞれに使い分けるのも楽しい。 書くと言う行為は、ただ漠然としていた考えを、わかりやすくまとめて誰かに伝えようという意思が働く。自分の使っていた言葉の曖昧さも辞書なんか引っ張り出して調べてみたり、PCで変換できなかった事で読みの間違いや使い方の間違いに気づいたり、コミュニケーションすることがこれほどにエネルギーを要する物だったのかと、改めて驚かされる。 人が自分のために書いた物は、嘘をつかない。いくら上手に取り繕ったつもりでも、その人がにじみ出るから不思議だ。 事務的な内容、公式な文書、契約書、これらは客観性が重要視される、という理由からタイプが必要なわけで、全くプライベートな用件なのにタイプされていたら、受け取った方は興醒めする。 この傾向はどういう理由からくるのだろうか?個性を嫌うってこと?パソコンが一般家庭に普及しはじめてから、やたらと年賀状ソフトや暑中見舞いソフトを使った葉書が送られてくるようになった。 文字もわざわざ手書き風や毛筆風のフォントを使って印刷しているところを見ると、そうやら普通の人は、手書きより印刷物の方が上等だと思っているようだ。 これはとんでもない誤解だ。一番上等なのは自筆。たとえ下手な文字でも自分の手で書いたほうが、受け取るほうはありがたみがあるのですよ。 (「good looking life」 津田晴美 著 より) 手書きの文字の中に感じる温かみ・・・。 励まされ、背を押され、手を引かれているような気がします。 まずは、一日一通日記変わりに・・・・。 日々の想いを文字にしたためて・・・・。 「どうぞ、お返事はお気になさならないで下さい。」 お手紙で、どなたかの心に喜びの種を蒔くことができれば、きっとそれが私のお布施になるはず。 どなたかに喜びをお届けできれば、それが私の喜びになる。
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