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テーマ:ささやかな幸せ(6740)
カテゴリ:良質な生活
今日は、朝からお友達が栗を届けて頂きました。 昨日はご近所さんからお漬物を頂きました。 その前は、親戚の方から梨の実が届きました。 そうそう、himenosinさんからも、イチジクのジャムを届けて頂きました。 暑い暑いと思っていたけれど、今朝の気温は23度。朝から爽やかな風に恵まれ、秋の一日を満喫しています。 実りの秋と言われるだけあって、たくさんの方々から自然の恵みをたくさんお福分け頂き、幸せが更に倍増・・・・。 美味しい喜びを、心から楽しんでおります。 お届けくださった皆様、本当にありがとうございます。 そして、美味しい実りを美味しく頂くため、大好きな辰巳芳子さんの本をお台所に・・・・。 手塩にかけて、美味しい実りをお食事に変えて行く。 火と水と、時間と、手間隙。 頭を使って、惜しみなく手間をかけて・・・・・。 皆様から頂いた、優しい心を形に変えていく。 優しい心とお台所にいると、私の心も丸く優しくなっていくようです。 『今の時代、お金さえあれば手に入らないものはない』と言うけれど、この心は買えません。 優しい心と共に過ごす時は、細胞の一つ一つすらも、美味しくて優しい薫に酔いしれております。 「あぁ、幸せ!」 そう心から思えるひとときです。 辰巳芳子さんの最新の書もまた、前書きに惹かれて買った一冊。 食卓を預かる身の心構えに、喝を入れられた気がしました。 『21世紀は慎みの時代』 表題の慎みについて、一考したいと望みます。 慎みの本来性は、心の内的態度のおのずからなる表出でありましょう。 それは、「分」をわきまえる、分際を知る、知ろうとするところに端を発するのではございませんでしょうか。 而して、「分」の根源は、あることはある、ないことはないとする、知性と魂の選択、決定であり、それを表現する、つまりそれを生きるには、相応しい情感と形の修練さへ求められるものであります。 恵與されているもの、欠如しているもの。掌中をゆるされるもの、ゆるされぬもの。これらの弁別は、清濁併せ呑むとは、まったく一線を画する態度と言えます。 真の「慎み」は、各個人の世界観による、内的心得とその態度が原点ではありますが、今あらゆる共同体、企業、そして国家、人類としての、地球的慎みを表現せねばならなくなりました。 各分野の大人達は己の「慾」の行方を、「分際」をわきまえ、分析せねばなりません。 私は、私共の分野から始めます。食は、地に足の付いた分野で、その気になれば、明日からでも行なえるはずですから。この分野で、手足を動かす習練をすれば、その呼吸、等しい呼吸で、他の分野に呼びかけが可能でありましょう。特に食の一次生産者と手を組む事は可能です。必要な可能性です。今世紀の確かな希望と安定の縁となるでしょう。 物事はいずれの分野においても、根源的に思索され、行なわれなければなりませんが、ことさら「食」においては、「人はなぜ食さなければならぬか」ということをできうれば科学的に考証、立証していただきたく望みます。 そこにおいて、把握されるところは、「いのちの仕組み」であります。呼吸と等しく、いのちの仕組みに組み込まれている、食べる事。この自明は、どこまで明らかにされておりますでしょうか。 すべての「いのちの仕組み」は、いのちがよりよく在るよう、生きてゆきやすく在るように、想像を絶する仕組みに違いありません。 食のいずれの分野に属する方々も、この自明から、心も、意も、力を離さずにいていただきたい。 すなわちこの命題に生きると、真の意味で人は何故生きるのかという根源に用意に至りつき、人間の分際も明らかになるのではないかと、考えられてなりません。 食の窓は、一見何気ない小窓に見えますが、広く深く、しかも明確、明瞭、歴然です。 この窓からさまざまな合図を送ることも可能です。国を動かし、地球環境を左右する事もできます。 今回の出版は、申し述べたような事を踏まえ、食まわりにおける慎みの方向の単なる一例でございます。 根源から離れぬ者は、簡潔に歩めます。幼児の如くならずは、神の国に入らざるべしとは、この事かと存じます。 (「慎みを食卓に」 辰巳芳子 著 より) 慎み・・・・真の心。ありのままのこころ。 私の心の内的態度を、とことん追求して行く事。 「私の分」を知り、知ろうとする事。 潔さを持つ、凛とした人の姿・・・・。 こういう心で、何事にもあたりたい。 さぁ、まずは食卓から・・・・。 命を真っ向からぶつけて、生きていく。 静かに、静かに、淡々と燃え盛る炎を、そっと心に抱き続け、根源を求めて歩み続ける。
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