カツラの葉っぱ 大好き!

2024/06/18(火)00:07

『世界 2024年3月号』1

気になる本(3689)

図書館で『世界 2024年3月号』という雑誌を、手にしたのです。 おお 特集1、2がUp To Dateで面白そうである。 ・・・ということでチョイスしたのです。 【『世界』2024年3月号】 雑誌、岩波書店、2024年刊 <出版社>より 【特集1】さよなら自民党 派閥・世襲・裏金  30年前の1994年1月29日、政治改革関連4法が成立した。改革の矛盾や問題点は様々に指摘されてきたが、今回の裏金事件でついに破断界に達したかに見える。 【特集2】働けど、働けど  どこの職場でも人員が削減される中で、労働時間やストレスばかりが増えている。物価がどんどん高くなる一方で、賃金は増えそうになく、税金や社会保険料で手取りは目減りする。働きつづけたからといって、「老後の安心」は手に入らない。こんな社会にだれがした? <読む前の大使寸評> おお 特集1、2がUp To Dateで面白そうである。 ・・・ということでチョイスしたのです。 amazon『世界』2024年3月号 「日本語のなかの何処かへ」という連載の最終回が面白そうなので、見てみましょう。 温又柔さんの日本語体験が語られています。 p288~290 <私たちが愉快でいられるために:温又柔>  あなたが楽しく愉快であるとき、それは、あなたが実際にそうである状態と、あなたが考えているあなたとのあいだにある埋めることのできない溝が何にも邪魔されることなく現れるがままになっていることを意味している。  あなたが首尾よく楽しく愉快になっているとき、それはあなたが自分が実際にそうなっていてこの溝において生きているとみんなが考えてよいと思っていることを意味している。あなたは自分の有限性を徹底的に受け入れている。(ティモシー・モートン)  幼少期に来日し、東京で成長する過程で私は、徐々に気づかされてきた。どうやら自分は「少数者」らしい。理由は明白。私が、日本人ではないから。  言うまでもなく、日本は、日本人だらけの国だ。それも、自分(たち)は「普通」の日本人であると信じ切ったまま、よほどのことがなければ、それをいちいち疑う必要にわざわざ迫られることのない人たちが、圧倒的多数を占めている。そして、かれらの大多数は、日本人の両親の子として生を享け、出生届が出されると同時に、日本国籍を所持する権利を獲得し、その人生のほとんどの時間を、日本列島内で暮らしている・・・こういう人があまりに多くを占めるため、自分自身がそうであるように、日本人といえば、普通は、そういう人であるはずだ、と漠然と感じている日本人は、現在も多い。  かくいう私自身も、ずいぶんと長い間、自分自身のことを、日本人みたいなぞんざいではあっても、日本人である、と思い切るのには、ためらってきた。  私が日本人?  まさか、そんな。  私は、せいぜい、限りなく日本人に近い台湾人であるというだけで、日本人そのものでは決してないはずだ。  私は、日本人。  そう名乗るための「条件」を、私は十分に満たしていない。ましてや、私も日本人です、とほかの人(私と違って、自分は、自分は普通の日本人だと堂々と自称できる人たち)にむかって、主張しようだとは思いつきもしなかった。  特定の誰かに、君のような人間は日本人と名乗ってはならない、と禁じられたわけではない。君は日本人と名乗るな、と面と向かって命じられたこともない。  しかしながら私は、成長の過程で、何度も思い知らされた。  自分(たち)は普通の日本人なのだと信じている人たちの多くが、「日本語」と思っていることばの使用者に、私は含まれていない。 【例】あなたは、日本語がお上手ですね。  私は、かれらが思うような「日本人」ではない。   【例】あの子って、日本人じゃないんだって。  かれらが「日本」と思っているこの国で、もしもかれらに「日本人」と認められたいなら私は、台湾人の要素を抹消しなければならない。 【例】名前さえ言わなければ、君は日本人に見えるから安心しなよ。  だからと言ってかれらは、「日本人」に見える私のことを、自分たちと同じ日本人だとは認めていない。 【例】さっさと帰化して、名実ともに日本人になればいいのに。  いつからか私は、たとえ日本国籍を取得したところで、自分のような「日本人」は、こんなふうに言われ続けるだけだと思っていた。 (中略)  私は、自分としては、とっくのとうに「日本」や「日本語」のなかにいると感じてはいても、それをいちいち主張しなければならないらしい。そう、日本語を生まれながらの自分のものだと信じきっている人たちとはちがって。  それで私は、自分自身について、まずは書くことにした。 ・・・私は、この家にいたんです。この国ではなく、この家に。(李良枝「由煕」)  李良枝の、厳密に言えば由煕の、葛藤の果てにたどり着いたその境地が、私の出発点になった。この家、喃語を脱し、ヒトらしいことばを少しずつ口にするようになった私が、プィエ(太っちょの赤ん坊)という愛称からようやく、You rouと呼ばれるようになったばかりの頃の、私の台湾の家。アペエ、ココ、スゥスゥ、アムゥ、アヂン・・・父のきょうだいやその配偶者たちを正確に呼び分けられる幼い私は、日本語をまだ一言も知らなかった。  記憶のなかで氾濫する声に耳を傾けながら私は、日本語以外のことばが飛び交うそのようすを、書いてみたい、と欲望した。幸い、ほかでもない日本語という、漢字と仮名が混淆する文体を駆使すれば、本来ならば、たった一つの「国語」のみでは束ねきれないはずの、複数の言語に取り巻かれていた自分の幼少期を描写するのには、申し分ないように思えた。  今になって思えば私は、私の家があった台湾を書こうとしたことによって、私自身に最も相応しい日本語の姿を模索し、それを実現できる日本語の可能性に救われたのだった。何しろ、書いてみればみるほど、日本語という書きことばが、その実、私が赤ん坊の頃に耳にしていたことば(いわゆる「多数派」の日本人が普段の生活で耳にしたり、口にしたりすることは滅多にないような)を取り込む上で、大変に柔軟性のある、寛大な器だと感じ入ったのだから。日本語のこうした包容力を生かすべく試行錯誤することに、最初の小説を書いていた頃の私はとにかく興奮していた。

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