朝日の経済コラムとして「(けいざい深話)敗れざる男」シリーズが載っていたが、エリート官僚の脱官僚が興味をひいたのです。
大使が東京に2年間出向していたとき、仕事のうえで通産省の官僚ともお付き合いがあったので、なおさらこの記事が気になるのです。
当時から「通常残業省」と揶揄されていたので・・・夜遅く、オフィスを訪ねても対面OKであり、官僚たちは真面目に仕事に励んでいたんでしょう。
![井原](https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/04d5f1f53b1cf967c3cc406b5c7d605954d39e18.26.2.9.2.jpeg)
10/22敗れざる男1:エリート官僚、原発を疑うより
伊原智人(46)はいま、グリーン・アース・インスティテュートというベンチャー企業の社長をしている。直訳すると「緑の地球研究所」という大仰な社名だが、従業員は16人、2011年設立の、ささやかな会社である。
サトウキビの搾りかすやトウモロコシの葉っぱ。食べられずに捨てられる農業廃棄物を燃料やアミノ酸に変える――。そんなバイオベンチャーだ。本社は東大キャンパス内の一室にある。
東京駅から1時間余り。千葉県木更津市に研究所を借りた。「いまエタノールをつくっています」。伊原が専用タンクの前でそう説明してくれた。いまや作業着姿がすっかり板についた彼は、民主党政権で「2030年代に原発ゼロ」を目指した官僚だった。
12年夏。「再稼働、はんたーい」「原発を止めろー」。官邸前の抗議行動に集う人たちの声は、伊原の職場によく響いた。彼が企画調整官を拝命した内閣官房国家戦略室は、官邸むかいの合同庁舎8号館にあったからである。
国家戦略室は、政治主導を夢見た民主党政権が新設した部署。そこに奉職した伊原は、霞が関に手足がない政権が、原発を所管する経済産業省に頼らずに政策立案しようと、政治任用された男だった。電力業界に精通した元経産官僚だった。
1990年春、通商産業省(当時)入省。同期の事務官28人は全員男、うち27人が東大卒。まだ中央省庁の人材に多様性が乏しい時代である。
中高大とハンドボール部に属し、妻は東大同部のマネジャー。キッコーマンの営業マンだった父の転勤に伴い、高松、仙台、名古屋、東京と転々とした。兄弟ともに東大に進学し、兄はいま厚生労働省健康局の総務課長を務める。
入省当時から目立つ存在だった。「役人は体力がないとつとまらないが、伊原君はスポーツで鍛えた体力がある。しかも簡にして要を得た説明ができ、なによりも誠実」と同期入省の一人。入省後、産業政策局調査課、機械情報産業局総務課、電子政策課課長補佐と歩む。「当時の重要コース。ピカイチでした」。そう後輩は言う。
米国留学で知的財産権を学び、帰国後「ビジネスモデル特許戦略」など2冊を共著で出版。そして官民人事交流法施行に基づき、同省の民間企業交流の第1号としてリクルートへ。大学発の特許を民間企業に橋渡しするビジネスに取り組んだ。
米国とリクルートで視野が広がった伊原が03年6月、役所に戻って配属されたのは、資源エネルギー庁電力市場整備課の課長補佐だった。
前任の同課長の川本明は、電力会社のもつ送電網を新規参入事業者が使えるよう促す「電力自由化」に取り組み、後任に「電力会社を厳しく規制しないと新規参入は実現しないよ」と申し渡していた。川本と入れ違いの伊原が託された一つが、原発から出てくる使用済み燃料などバックエンド(後処理)費用をどう負担するか、政策立案することだった。
総額19兆円になる後処理費用のうち約半分は電力料金に上乗せして徴収し積み立てる制度があったが、残る半分の捻出の仕方が決まっておらず、電力業界からは「新規参入組にも負担させろ」という声があがっていた。原発の使用済み燃料から再利用できるウランやプルトニウムを取り出そうと、核燃料サイクル施設の再処理工場の試運転も間近に控えていた。
伊原は経産省やエネ庁の5人の中堅・若手と協議する。彼らはこのときまで、原発推進は国策として当然と思っていた。だが、業界や同省の先輩にヒアリングを始めるとどうもおかしい。
伊原ら2人が東京・新橋の料理店で大手電力会社の担当幹部と会食すると、相手はこう切り出した。
「本当に核燃料サイクル施設を動かすんですか。やめられるのならやめたいですわ」
耳を疑う言葉だった。
省内で「ピカイチ」と評されたエリート官僚の人生はこの後、大きく変わってゆく。
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10/23敗れざる男2:世論に止めてもらおうと…より
原発の使用済み燃料を再利用する核燃料サイクル施設を見直せないか――。2003年、資源エネルギー庁課長補佐の伊原智人ら6人の耳に入るのはそんな声だった。
核燃工事は多くのメーカーやゼネコンが絡み、電力業界には施工面に不安を抱く人がいた。それを裏付けるように水漏れなど不正工事が見つかる。「運転後の事故を心配していたんです」と6人の一人。
ひとたび使用済み燃料を用いて再処理工場を試運転すれば、工場は高濃度に汚染される。その後撤退が決まれば費用がかさむ。だからその前に立ち止まりたい。伊原たちは電力業界の事情をそう受け止めた。
自由化対応を迫られる電力各社の企画部門は特にその意向が強かったが、各社の原子力部門は核燃推進派が多い。電力の中は割れ、それゆえ経済産業省内も「見直し」支持の自由化派と様子見の技官が混在する。
省中枢の官房総務課を伊原たちが訪ねると、応対した先輩は「上も『止めろ』だ」と、事務次官村田成二の意を忖度(そんたく)して伝えた。伊原たちは励まされた。「俺たちは正規軍だったんです」と当時の若手は振り返る。
電力業界は内部に推進派の原子力部門を抱え、撤退を言い出しづらい。さりとて国策として核燃を推進してきた同省も大転換を唱えにくい。だから伊原は「国民に決めてほしかった」と世論に訴えたかった。
伊原ら数人は04年、上司の電力ガス・事業部長の寺坂信昭を居酒屋に呼ぶ。「国民的議論をおこしたいんです」「やらせて下さい」。寺坂は「足跡を残さない程度にな」と認めた。
3,4人が渋谷のデニーズに深夜集まり、世論喚起のため「19兆円の請求書」と題した25ページの資料を作成。費用面と安全面で警鐘を鳴らし、「立ち止まり、国民的議論が必要」と記した。説明を受けた自民党衆院議員の河野太郎は「経産省の上の人が了承したな」と思った。
やがて河野が青森県で「核燃はコストに合わない」と講演。週刊朝日は「19兆円の請求書」を「上質な怪文書」と称して大きく報じた。次第に核燃事業を疑う見方が広まってゆく。
だが、そこまでだった。
電気事業連合会の原子力担当幹部が「お宅の若手がこんな紙をまいている」とねじ込み、立地する青森県も猛反発した。「村田さんが中川昭一経産相に見直しを説得できなかった」と当時の若手は打ち明ける。
エネ庁長官の日下一正は04年3月「再処理しない場合のコストを試算していない」と国会答弁したが、実は再処理しない方が安上がりという試算は存在した。ロッカーに隠されていたこの極秘の試算結果が流出し、各紙が報道。中川は「知っていた者を処分しろ」と激怒、彼らに理解のあった上司が豹変する。
伊原たちはそのあおりで処分されたり、左遷されたりした。伊原は04年7月、経産省情報経済課の課長補佐に異動。やがて「もっと別の経験をしたい」と退官を決意。仲間はそれを伊原の「美学」と受け止めた。
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10/24敗れざる男3: 原発ゼロへ、トップ動かすより
経済産業省を退官し、再びリクルートに転じていた伊原智人は2011年5月、民主党の玄葉光一郎から昼食を誘われた。玄葉はこのとき菅直人政権の国家戦略担当相。東京電力福島第一原発事故から2ヶ月、菅は新しいエネルギー政策「革新的エネルギー・環境戦略」の立案を玄葉にゆだねていた。
(文字数制限により省略、全文はここ)
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10/25敗れざる男4:ゼロの議論、反映できたより
国家戦略担当相の古川元久は2012年8月22日、「一緒に食事でも」と伊原智人たちを高級ホテルの中華料理店に誘った。そこで古川は、自分で書いた1枚の紙を見せ、「こういう方針で作ってくれないか」と切り出した。原発ゼロ、新増設せず40年廃炉の徹底など古川自ら「高めのボール」と呼ぶ内容が箇条書きになっていた。
伊原はそこにある「核燃料サイクル施設の中止」という文言に釘づけになる。「ホントにできますか」と誰かが尋ねると、「少なくとも目指すべきでしょう」と古川。伊原は「これが書けたらすごい」と思った。
集められたのは伊原やTBS出身の内閣審議官下村健一ら6人。経済産業省出身の官僚は外された。元大蔵官僚の古川は自身の官僚経験から「政策起案は最初のドラフト(草稿)が骨格を決める」と考えた。だから「伊原さん中心に第1ドラフトをつくってほしかった」。
同日夜、元官房長官の仙谷由人ら政治家が合流。古川の紙を一見すると、仙谷は「市民運動をやりたいなら、菅(直人)と一緒にやれ」と怒鳴り上げた。たちまち空気が凍りついた。
伊原たちがつくったドラフトは各省協議の過程で経産省や文部科学省から修正が入り、次第に骨抜きにされてゆく。核燃中止の文言は消えた。それでも「30年代に原発ゼロをめざして政策資源を投入する」と「ゼロ」は残った。「あれが精いっぱい。でも、ゼロにしたい国民的議論を反映できた」。伊原はそう自己評価する。
野田内閣は9月19日に閣議決定したが、同年暮れの総選挙で民主党は大敗した。同党の下野が確定すると、伊原は任期を半年残し「僕は2度負けました」と霞が関を去った。
そんな伊原を東大エッジキャピタル社長の郷治友孝は放っておかない。郷治は元経産官僚で、同じ課にいた伊原は尊敬する先輩だった。大学発ベンチャーを支援する東大のファンドに転職していた郷治が「会わせたい人がいる」と誘った。
引き合わせたのが、グリーン・アース・インスティテュート創業者の湯川英明。渡米したがっていた伊原を、湯川は「一緒に夢のある仕事をしようよ」と引き留めた。伊原は「自分が唱えてきた政策を、実現する側にまわりたい」と13年1月に入社。のちに社長に就任した。来年には農作物の廃棄物由来の洗剤の材料を商用化する予定。17年3月期に黒字化と株式公開をめざしている。
あれから2年。霞が関・永田町の空気はすっかり変わった。原発ゼロの目標は消え、再稼働が秒読みとなる。伊原は「あのときの政策がまるでなかったようにされている」と言う。
「民主党政権は確かに未熟な政権だったかもしれない。でも国民的議論を反映した。原子力政策は国民的議論という裏付けがないと立ちゆかない」。伊原は確固たる口調で語った。 =敬称略(大鹿靖明)
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原発推進という国策に疑問をはさみ、美学を貫いた伊原さんであるが・・・
未熟な民主党政権に仕えたのが、運の尽きだったようです。
でも、伊原さんには7転び8起きのバイタリティがあるわけで・・・
出世レースから降りて、バイオベンチャー事業を手懸ける井原さんに、幸多かれと望む次第です♪