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カテゴリ:東日本大震災の記録
実母の老いのことを記録のつもりで書いてきましたが、東日本大震災の一週間後の 2011年3月18日、高速バスが復活して三日目に仙台から母子で福島に移動しました。 その時、母は路線バスも不通だったのかダイヤが乱れていたのかは忘れましたが 実家から三十分かけて駅まで歩いて行き、「放射線量が高い中、三十分以上高速バスの到着を待っていた。」そうです。そのことには今でも感謝しています。 その二日くらい前の放射線量が最大値だった時には断水だったので「マスクもせずに往復一時間くらいかけて水を汲みに行った」そうです。 実家周辺の除染も今年の三月現在では公共施設しか行われず、各家庭や道路は話もきていませんでした。 が、震災前から庭の芝生に住み着いていたカエルが震災後も毎年出現していました。 老人の認知の方はともかく、健康被害は三年経過しても重病にかかることもなかったことは事実です。 放射能についてはその人によって考え方が皆違い、昔からの友達は接客業で数多くの人と接する仕事をしていることもあってか、私が「放射能を気にしすぎている人」と思い込んでいて、 なんど「違う」と言っても次にあった時には「線量が気になる?」と、同じことを聞きます。 友達「全然大丈夫なのに。それでも気になる?」って調子です。 客観的にみて「私ってそういうイメージなんだ〜。」と意外に思います(^^;。 また、震災の年の冬頃、短期間ですがカウンセリングを受けていたことがあります。(この小屋にも記録があるはず・・)。 で、震災のちょうど一週間後、福島の原発のことを考えると「避難にもならないような避難をした。」 話をすると、 何回目かのカウンセリングの時、 カウンセラーのオバさんが「私の知り合いにね、仙台で子育てをしたんだけどライフラインが乱れていたから郡山の実家に幼児と一緒に避難にもならない避難をした人がいるんです。」 私(心の中で)「ん?!なんか、私の話に似てる?」 オバさん「その人はね、山の向こうから爆発の瞬間の煙をみたそうです。そして妙な波動をしっかり感じたそうなの。」 郡山から阿武隈山地の向こうの双葉町まではかなりの距離があるので「見えた」というのは個人的には疑問です。 「波動」に関しては、私「高速バスを福島駅で降りたら空気に匂いがあるというか妙な感覚がした。」と話しました。それは事実でしたので。。 オバさん「わたしは、三歳の孫が横浜にいるんだけど、がん保険をかけました。将来、絶対ガンになると思うから。」 「実は私は二度被爆したんです。チェルノブイリの時にはヨーロッパに留学していて、今回は福島でしょ。」 でも、カウンセラーのオバさんは震災前から仙台で仕事をしているわけで。。人によって「被爆」の感覚はこうも違うのかと驚きでした。 私を「もっと苦労している人がいる。」と励まそうとしているようでしたが、その時は一時間五千円のカウンセリングの時間中、三分の一くらいオバさんの原発。放射能論を聞かされました。
お金を払って「原発の話」を一方的に聞かされるのは堪らないので、その日をもってカウンセリングは終了しました。 「東電がね、隠してたでしょ。」→ここからオバさんの喋りがヒートアップし、 「子供に福島の空気なんて吸わせられないわ。とんでもないわよ。」 と、仰っていたことを今、思い出しました。
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