山崎朋子『サンダカン八番娼館』(文春文庫)
山崎朋子『サンダカン八番娼館』(文春文庫)近代日本の底辺に生きた海外売春婦「からゆきさん」をたずね、その胸深くたたみこまれた異国での体験と心の複雑なひだとをこまやかに聞き出す。底辺女性史の試みに体当りした感動的な大宅賞作品(アマゾン内容紹介)◎2人の先達 新装版が出ましたので、再読してみました。書棚の旧版はヤケがひどく、一度は再読を試みましたが断念しました。古い読書メモには、「遠慮しつつ踏みこむ描写に感心」とだけ書いてありました。今回はその点を丹念に読むことにしました。 旧版の扉にあった写真が、新版では表紙を飾っていました。『サンダカン八番娼館』(文春文庫)は、ノンフィクション作家・山崎朋子(ともこ)の代表作です。本書では明治時代、天草から「からゆきさん」としてボルネオのサンダカンに渡った一人の女性にフォーカスをあてています。からゆきさんとは、明治から大正中期まで、社会の底辺で育った娘が海外へ渡り、自らの肉体を商売にする婦女子のことです。 著者の山崎朋子は、平塚らいてうと山川菊栄を尊敬しています。2人とも婦人運動家として著名な人です。2人について山崎は、次のように説明しています。――平塚らいてう、雑誌『青鞜』を創刊し、マニフェスト「元始、女性は太陽であった」を発表して近代日本のフェミニズムの最初の旗をかかげた人で、八十五歳の命を終えるまで女性運動のシンボルでありつづけた方である。そして山川菊栄、らいてうの市民主義的な思想を労働者、農民階級の立場から批判し、フェミニズム運動を一歩進め、初代の労働省婦人少年局長の座に着かれた方であった。(山崎朋子・文、文藝春秋編『私たちが生きた20世紀・下巻』文春文庫P493) ちなみに『青鞜』創刊号からの代表作は、講談社文芸文庫に所収されています。タイトルは『青鞜小説集』です。山崎朋子は2人の先達の背中を追いかけるように、底辺女性の研究をはじめます。きっかけは26歳のときに結婚した児童文化研究者の上笙一郎による影響です。◎おまえは何者なのか? からゆきさんから話を聞きたい。強い思いを抱いて山崎朋子は天草へと向かいます。しかし老人に「からゆきさんをご存知ありませんか?」と投げかけると、態度を一変させ露骨に嫌な顔をされます。山崎は取材の困難さに気づきます、 天草に着いた山崎は。偶然にも一人の老女と出会います。それが物語の主人公・サキでした。山崎はサキと同道し、彼女の住まいへ行きます。そこは廃屋同然の家でした。――座敷の畳はほぼ完全に腐りきっているとみえ、すすめられるままにわたしが上がると、たんぼの土を踏んだときのように足が沈み、はだしの足裏にはじっとりとした湿り気が残るばかりか、観念して坐ったわたしの膝へ、しばらくすると何匹もの百足(ムカデ)が這い上がって来るので、気味悪さのあまり瞳を凝らしてよく見ると、何とその畳が、百足どもの恰好の巣になっていたのである。(本分P34) 山崎はサキと同居し、何としても話を聞きたいと思います。そして山崎は夫と娘(8歳)の了解を得て、後日サキとの同居を敢行します。サキの家にはトイレも風呂もなく、たくさんの猫が出入りしています。食事も粗末なものです。朝食場面を引いておきます。――米と押麦を半々にまぜた飯と屑じゃが芋に味噌と塩を入れて煮たもの(本文P52) 共同生活は三週間に及びます。おサキさんは、山崎に対して「おまえは何者なのか?」とは問いません。山崎は遠回しに、サキへ質問を繰り返します。『サンダカン八番娼館』はこうして聞き取った、サキを中心としたからゆきさんの実態に迫った一冊です。サンダカン八番娼館については、あえて触れないでおきます。山崎朋子が再びサキの住まいを訪れる場面が、二人の信頼関係を象徴しています。紹介させていただきます。――常識からすれば、わたしが何のために今頃ここへ来たのか、来てどうするつもりなのか、いや、それよりも、そもそもわたしがどこのどういう人間であるかを問わずにはいられないはずなのに、彼女は、そのいずれについても訊かないのだ。(本文P49)◎生き地獄 サキがボルネオへ渡ったのは10歳のときです。父は亡くなり、母は再婚して家を出ました。サキは兄の矢須吉と小さな畑を借りて生計をたてていました。しかし生活は困窮し、サキはからゆきさんとして外国へ行く決心をしたのです。300円と引き替えに、サキは兄が新しい畑を買い、家を建て、幸せな結婚をしてくれるように願いました。 山崎朋子はおサキさんから、長い苦難の人生をたんねんに聞き取ります。読者は短く語るおサキさんの傍らにいるかのような、錯覚におちいります。山崎が語り言葉で表現しているために、読者は固唾を飲んでしまうのです。 読み終えて、震えがきました。震えのなかから、生き地獄という単語が浮かんできました。若者にはぜひ読んでいただきたい一冊です。もしあなたが今を絶望しているなら、おサキさんの生涯に耳を傾けてください。自分の幸せが見えてくるはずです。(山本藤光2017.06.26)