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藤の屋文具店

空を飛ぶ鳥のように 9~16

          【空を飛ぶ鳥のように】

             海原雄山


 「美味しんぼ」の主人公、山岡士朗の父親である。陶芸、書、料
理などの分野にまたがる大芸術家で、北大路櫓山人を現代に復活さ
せたような大天才といったところか。傲慢な男である。

 長期連載の作品では、連載初期と終わりの方では、登場人物のキ
ャラクターが変化してしまっている場合がよくある。もちろん、作
品中で登場人物が成長したり堕落したりするケースは当然であるが、
連載当初の設定を変更してしまう場合も多い。
 海原雄山は後者の例である。初期作品での彼は、フランス料理店
にわさびと醤油を持ち込んで侮辱するような、ただの傲慢な権力者
のように描かれていた。それが、回を増すごとに人物の深みを増し、
現在ではとても魅力的なキャラクターとして描かれるに至ったので
ある。僕が興味を持っているのは現在の彼なので、こちらについて
書くことにする。

 マスコミによる大量消費が横行する現代では、ちょっと人目をひ
く程度の作品を作るだけでも、「芸術家」を名乗ることはたやすい。
プロと称する作家の作品には、正直いって、ラベルを剥せば誰の作
品か不明なものすらある。作中の海原雄山は、そのような二流の芸
術家とは一線を画す、とうてい比較の対象にすらならぬ大天才であ
る。彼は、なにものにも媚びず、いかなる権力にも脅迫にも屈しな
い。ただし、芸術の追求のためには他人の心を顧みず、かなり無神
経なこともする。誤解のために使用人を罵倒することもあるが、そ
れに気がつけば反省して譲ることも多い。しかし、クズのような人
間に対しては、徹底的な侮辱を与えて同情のかけらさえない。

 彼は、自分の芸術を極めるために生き、彼の妻はそういう彼の生
き方を支えるためにたいへんな苦労をした。主人公山岡士朗は、そ
のために父親である彼を、母を死に追いやったものと誤解し、そし
て反目する。ふつうの男なら、こういう場合にはくどくどと弁解し
ては誤解を解こうとするのだが、彼は黙って放置する。彼は、自分
の行動にやましいところが全くないので、他人の目を気にしないの
であろうか。あるいは、その程度の理解しかできぬ浅はかな男など、
自分の息子である資格はないとでも、思っているのかもしれない。
 
 息子、山岡士朗の結婚式で、彼は質素な食事をメニューに載せ、
過去のエピソードを語り始める。権威によりかかることを潔しとせ
ず、自分自身の誇りにかけて自己の思うところを表現し、それを世
間に問うて堂々と生きていく様は、まさに自信に満ちた王者の道で
あると思う。しかし、こういう「正しい」生き方はまた、それので
きぬ2流3流の半端者にとっては、ひたすら傲慢で「優しさのない」
生き方としか理解できない。なぜなら、自分の生き方に自信を持た
ぬ臆病者は、自分が傷つくことを恐れるあまりに、自分より優れた
者を無意識に排除しようとするからである。
 海原雄山は、そのような甘えた半端者にたいして、歯に布きせぬ
辛辣な批評で罵倒する。知識も考察もないまま、ムードに浮かれて
捕鯨反対をうたうだけのお調子者や、政治家の威光をかさに威張り
散らすリゾート開発業者に対して、その傲慢で幼稚な叫びに一歩も
引かずに怒鳴り返すのである。凡人なら、こういうときはおとなし
く引き下がり、陰でこそこそと捨て台詞を吐くだけだ。

 彼のこういう強さを支えるのは、たぶん、死んだ妻である。彼の
才能を認め、彼の生きざまを愛し、彼が自分の信じる生き方を続け
られるように全力でサポートし、彼の喜びを自分のものとして受け
とめて一緒に生きてきてくれた彼女の存在が、いかなる孤立無縁の
逆境においても、彼が彼であり続けることを助ける力になっていた
ことは、疑いようがない。
 彼の生き方は、一人の人間のそれとしては、必ずしも「良い」と
は言えないだろう。人はもっと、他人と協調し、誰にも嫌な思いを
させずに、みんなで仲良く優しくいたわりあいながら暮らしていく
べきなのだと思う。彼のような男が身近にいたら、心が休まること
がないかも知れない。
 一生努力したところで、誰もがみなひとかどの人物になれるとい
う保証などないのだから、エロ本読んだり酒飲んで愚痴をこぼした
り、お金で若い女の子と寝たり、役得で威張っていいかっこしたり、
そういう生き方のほうが楽しいのかも知れない。

 でも、世の中には、我慢ではなくて本当に、なま暖かい水よりも
冷たい水を心地よいと感じる、そういう生き物だっているのである。

 今度生まれ変われるならば、男と女とどちらが良いかと聞かれて、
僕はいつも男を選ぶ。なぜなら、僕が女なら、一緒に生きて行きた
いと思うだけの男がいないからだ。だけど、もし、海原雄山のよう
な男が現実にいるのなら、そんな世界があるのだったら、女に生ま
れるのも悪くはないな、と思う。

          【空を飛ぶ鳥のように】

              大魔神


 大映が誇る、異色のモンスターである。岩壁に彫られた埴輪のよ
うな彫刻が、娘の祈りと涙に反応して起動し、右腕で自分の顔をス
キャンすると顔が戦闘モードにスゥィッチする。身長は、石垣の上
にのっかったお城の天守閣ぐらいで、出現する時代の科学力を考慮
にいれれば、ほぼ無敵の大怪人である。

 大魔神は、ちまちました技は使わない。ひたすら目的地に向かっ
て進行し、こざかしい権力をたてに恥知らずなおこないをする馬鹿
殿様を、黙々と叩き殺すのである。もちろん、ターゲットは家来を
使って抵抗するのだが、ちゃちな槍や刀や弓矢では、大魔神はびく
ともしない。足軽どもがロープでひきとめようとしても、おかまい
なしにずるずる引きずっていってしまう。ウルトラマン一族のよう
に、ダメージを受けながらも正義の根性で逆転して勝利をおさめる
・・等という見苦しい戦いはしない。ひたすら踏みつぶし、叩き壊
し、いっさいの警告もなく、進路を阻む罰あたりの人間どもをけち
らして目的を達成するのである。見ていて胸がすっとする戦いぶり
である。さすが魔神を名乗るだけある。

 キリスト教なんかでは、神様は全知全能の造物主で、心正しいも
のには救いを、心あしきものには滅びを与える、まことに公平で心
優しい父親か母親のような存在として語られている。しかし、僕は
思う。われわれ人類よりはるかに優れたそんな存在にとって、人間
風情の考えるところの善だの悪だのという概念が、いったいどれほ
どの意味を持つのだろうか。タバコを吸うなだの酒を飲むなだの、
セックスがあーだら殺生がこーだらといった、そこいらのじじいの
説教みたいなちっぽけなことを、神の意志のようにふれ歩くひとた
ちがいるが、神を馬鹿にしているのではないかとすら思う。チンパ
ンジーに人の願いがわかるはずはない。思うに、これらのちまちま
した説教に利用される神のイメージは、神の名を語るインチキ宗教
屋と教育者どもが結託し、無知な大衆を導いてやろうという思い上
がりのもとに、ボランティアで構築された虚構ではないのか。

 その点、大魔神はまことに「神」を感じさせるキャラクターであ
る。彼は、悪者の言いなりになって突撃してくる下っ端に対しては、
何の躊躇も見せずに踏みつぶすのである。誤解であれ無知であれ、
邪魔をするものにだけは容赦なく、逃げるものは追わない。いや、
そもそも彼は、目的とする馬鹿殿様以外は気にもとめていないのだ。
下っ端の善人どもが生活のために命令を聞かざるを得ないことなど、
彼の知った事ではないのである。そこに罪があろうとなかろうと、
崖から踏み出すものは転落して死亡する、そんな事故か天災のよう
なものなのかも知れない。彼の行為について、その善悪を云々する
のは、雷や台風に損害賠償を求めるに等しい愚考なのである。
 大魔神は若い娘の願いによって動き出す。それも、若くてきれー
なおねーさんの願いにだけ反応する。じじいやおっさんだって願い
事することはあるだろうに、若い娘の祈りでないと起動しないので
ある。ここらへんはいいかげんな神様である。

 小さな世界で権力を振り回し、ものの善悪もわからぬうすらばか
の取り巻きに甘やかされ、未成熟の心のまま歳をとった地方の馬鹿
殿様、その常軌を逸した乱行で村人は迷惑するが、遅れた社会では
誰もとがめる事ができない。逆らって自分だけが村八分になるのが
恐いわけである。そのような意気地無しの集団で犠牲になるのは、
いつの時代も弱い女子供と決まっている。役たたずの村の男どもに
愛想をつかした娘は、思いあまって、たたりのありそうな、しかし
強力な神に祈る。
 一方、馬鹿殿に仕える家来たちも、自分たちのしている事の悪さ
は承知している。立場を失う事が恐くて意見ができないだけである。
意気地無しの臆病者ではあっても、悪人ではない。中には、だまさ
れて利用されているだけの下っ端もいる。馬鹿殿にしても、ほんと
はたぶん善人なのである。親から受け継いだ権力に甘やかされて、
大人になる機会を失っただけの、無邪気なばかぼんぼんに過ぎない。
この程度の男にしか育てられなかった親の罪である。
 しかし、理由がなんであれ、虐げられるものにとっては意味を持
たない。凶悪犯を弁護したがる野次馬が考えるほど、被害者の心の
傷は小さくないのである。ぬるま湯の世界の住人はいつも、そうい
う人たちの心を理解したように思い上がる。

 大魔神は、そういう甘えた悪人どもを、木っ端みじんに打ち砕く。
いかなるエクスキューズも許さずに、むしけらのように踏みつぶし、
黙々と進撃していく。罪のない雑兵どもを踏みつぶし、利用された
だけの下っ端を弾き飛ばし、祈りを捧げた娘のために悪者をぶち殺
しにいくのである。まことに明確な意志と実行力である。こんなも
んに戦いを挑むのはあほぅである。ちんけな武器では太刀打ちでき
るわけはない。ターゲットは、大魔神が戦闘モードに入ったと同時
に、すでに破滅しているわけである。

 僕は、初代ゴジラと並んで、この大魔神が、とても好きである。

          【空を飛ぶ鳥のように】

             マレッタ


 御廚さと美の作品「裂けたパスポート」のヒロインである。売春
婦をしていた13才のときに、主人公のラモー・ゴースケに出会い、
彼と奇妙な同居生活を続ける。二人の間には、肉体関係はない。親
子というほどではないが、恋人というにはいささか歳の離れた二人
の間には、あるいは夫婦以上かも知れぬ、強い愛情と信頼があるに
もかかわらず、いわゆる「同棲」ではない関係を続けている。

 高校時代の僕なら、売春婦を真剣に愛する中年男の心理なぞ、と
うてい理解できなかっただろうと思う。僕らの世代ですら、女性は
男の財産のような感覚があり、他人の手垢にまみれたおんななど、
ましてや金で誰とでも寝るようなおんななどとは、かっこわるくて
つき合えないというのが、一般的な恋愛像であった。例えが悪くて
恐縮だが、どれでも好きなクルマを一台やると言われたら、レンタ
カー上がりよりは新車のほうが絶対得だ、そういう感覚である。
 こういう、処女崇拝のバリエーションは、自分に自信のない男に、
あるいは、自信のない年齢の時に、より強いように思う。ほかの男
を知らぬおんなの前では、どんなおそまつな男も安心してリラック
スできるからだ。性経験豊富な女性を馬鹿にする男の心理の中には、
自分が残酷な評価をくだされた場合の保険として、意識の底で身構
えての事であることが多い。攻撃性の強い生物は、弱くて臆病なも
のが多いのといっしょである。

 主人公ゴースケは、パリに住み着いた日本人である。清濁併せ呑
むタイプのしたたかなおっさんでありながら、けっこう純情だった
り頑固だったり、いいかげんだったりする。現実の世界にもいかに
もいそうだが、僕はまだ出会ったことはない。
 ゴースケは、平気でそこいらの女たちと寝る。マレッタは怒る。
マレッタを、おそらくほかのだれよりも愛していながら、ゴースケ
は手を出さない。マレッタもまた、ゴースケを愛していながら誘わ
ない。セックスに対する心理的なバイアスがあるわけでもない。二
人の間にある特別な関係を壊してしまう事への不安なのだろうか。
 人間関係の浅い人たちは、セックスによって相手を「所有」でき
るという幻想を持ちやすい。チンピラヤクザが、一回寝ただけの女
につきまとう心理である。これは、男にも女にもよく見られる。し
かし、それが幻想にすぎない事は、離婚経験のある人なら誰でも知
っている。たかがセックスで人を所有する事など、できるわけがな
い。人の心を従える事のできるのは、人の心だけなのである。

 マレッタは、自由奔放である。ゴースケは彼女に、「らしさ」を
求めず、好きなようにさせている。損得感情で恋愛を計るなら、ゴ
ースケはひたすら損をしているだろう。しかし、本当は、どちらも
損などしていない。お互いが、お互いを必要とし、そして、相手か
ら多くのものを与えられ合っているのである。もちろん、相手にさ
れないものどうしがすねて慰め合うような関係ではない。それぞれ
がひとりでやりたいことをやり、お互いがお互いであり続けながら
も、相手の人生に深くかかわりあっていく、クールでありながら芯
の熱い関係である。こんな関係を維持できるマレッタの心は、ある
いはそこいらのおばさんよりずっとずっと、大人である。
 マレッタは、ゴースケと比べると幼く、保護されて生きている「
子供」である。自由に生きていながらも、それはゴースケの協力な
くしては成り立たない生活である。しかし彼女は、そういう関係に
ある子供が持ちやすい反感を、彼に対して持つことをしない。これ
は、彼女が彼を、本当に信頼しているということなのだろう。
 恋人や夫婦は、ある程度関係が続くと破綻することが多い。見た
目や上辺をごまかせるのは、せいぜい数カ月しか続かないからであ
る。口先でごまかした中身のお粗末さは、それがばれた時には利息
がついている。この二人のように、したたかな中年のおじさんと若
い娘のカップルは、成立するのは簡単だが、維持するのは非常に難
しい。それが、このようなしっかりした関係を維持し続けていると
いう事は、ゴースケが本物だという事であり、そういう男にまとも
に相手にされているという事はまた、マレッタが、若くて綺麗なだ
けの、ひとやま百円のみてくれだけの女とは違う事を証明している。

 売春婦の過去をあばかれ、マレッタは、学校で総スカンをくった
こともある。美貌でも知性でもかなわぬ連中にとってそのスキャン
ダルは、傷ついた自分のプライドを立て直すには最高の蜜だったろ
う。しかし、売春行為でもっとも恥ずかしいのは女性のほうではな
く、金品を貢いで相手してもらっているほうの、それらの道具で飾
りたてねば相手にしてもらえないような、人間としての魅力を持た
ぬなりそこないの男のほうではないのか。
 貧困や暴力や社会的差別により、やむをえず売春せざるをえない
女性を利用し、そういう行為をハンティングのトロフィーのように
語る善男の成れの果て、そんな小市民の群れから遠く離れたところ
にいるゴースケが、自分のライフワークを放り出してまでも守ろう
としたマレッタには、やはり、男が心底惚れるだけの魅力があるに
違いない。たとえ、それが彼女の手柄ではないにせよ・・・。


          【空を飛ぶ鳥のように】

             じっちゃん


 尾瀬あきら作「夏子の酒」で、佐伯酒造の杜氏をつとめる山田信
助である。この作品は、志しなかばにしてガンに倒れた兄の遺志を
継ぎ、幻の酒造米「龍錦」を用いて最高の酒をこの世に生み出そう
とする、ひとりの女性の物語である。主人公夏子は、たぐいまれな
敏感な味覚の持ち主である。彼女の感覚と兄への恋慕、やや生硬な
正義間、米をとりまく現代の農業と、そして食品にまつわる矛盾に
満ちた行政、それらの重めのテーマと、日本酒に対する愛情とが織
り込まれた真面目な作品である。ともすれば薄っぺらなウンチクか、
青臭いだけの自然礼賛でおわってしまいがちなこの手の作品が、こ
こまで成功しているのは、じっちゃんをはじめとする、深みのある
キャラクターを持つ脇役たちのおかげであろう。

 理想の酒造米「龍錦」を前にして、じっちゃんは新型酵母を導入
し、専務である夏子と対立してしまう。クライアントを持つデザイ
ナーなら理解できると思うが、作品の一部をいじられるほどの屈辱
は、創造をライフワークとする人間にとって、ほかにはないほどの
苦しみである。じっちゃんは、たんにお金のために働くだけの技術
者ではなく、自分の仕事に誇りを持って取り組むタイプの、いまで
は本流からはずれたタイプの「職人」である。それゆえに、夏子に
よって自分の提案に難色を示された彼の失望と悲しみは、想像する
に余りある。
 しかし彼は、そんな夏子の強引な主張をしっかりと受けとめ、夏
子の提案も同時に実現すべく、2種類の酵母を使って酒を造り、彼
女の納得がいくまで相手をする。いかに天才的な味覚があろうとも、
酒を造ることにかけては夏子は素人である。豊富なキャリアを持つ
ほんとうの意味でのプロである彼が、素人である夏子の感覚にここ
まで敬意を持ち、そして大事にしていこうとする姿に、彼の夏子に
対する深い愛を感じる。愛情というのは、にちゃにちゃとまつわり
つくことでもなければ、下僕のように従うことでもない。ましてや、
性欲の発酵した上澄みでもあるまい。それは、相手を認め、そして
信じる事から始まる、一連のシークェンスであろうと思う。

 夏子がいかに優れた味覚をもっていようとも、彼女には何も造れ
ない。見習い杜氏の草壁が夏子を信じきれなかったのは、当然の反
応である。出荷する樽の選定で夏子と意見が分かれたとき、彼女の
決定をひとり認めたじっちゃんは、あるいは、杜氏としてのプライ
ドに欠けるともいえる。彼にしてみれば、自分の能力をはるかに凌
ぐ夏子の感覚を、信じてみたのであろう。
 夏子は、ともすれば自信を失いそうな局面を、思いを寄せる内海
酒造の蔵元、内海英二と、そしてじっちゃんの信頼と愛情に支えら
れ、ついに究極の酒を醸すことに成功する。夏子の感覚が正しかっ
たことを、その酒を飲んだすべての人がはっきりと理解する。じっ
ちゃんの信じていた夏子の正しさは、みんなに認められたのである。
 
 その年の秋、じっちゃんは他界する。ともすれば、健康や長生き
だけを人生の目的にしかねないのが、この平和な時代の風潮である。
心に悪い事は平気で楽しむ人たちも、身体に悪いタバコは敏感に嫌
悪する。食品の安全性や生活環境の悪化をなげく人たちは、隣人の
心の痛みには冷淡だったりもする。
 ひとには、他人には理解できないような理由で、時には自分の命
を縮めてまでもやりとげたい事があるということを、そして、それ
は、本人以外には理解できない価値なのかも知れないという事を、
なまじ優しいと自分を誤解している人は理解できない。他人を理解
できると思い上がっている、無知で傲慢な人間にわかるのは、自分
の中の恐怖と快楽だけなのである。
 じっちゃんの寿命が縮むのを承知の上で送り出した彼の妻もまた、
本当の意味で彼を愛していたのだろう。他人の健康にまでお節介を
焼き、その程度のことを愛情だと信じる人の多いこの時代、なにが
本当の優しさなのか、そして、本当の愛情なのか、彼の生きざまは
静かに教えてくれているような気がする。
 僕たちの学んだ教科書には、偉人と呼ばれる多くの有名人の生き
ざまが載っていた。だけど、何かを成しえるという事は、その結果
の大きさではなく、それを成し遂げた人の心の中にこそ、本当の値
打ちがあると、僕は思う。

 僕は、普通に生き、さりげない平凡な人生を誇りを持って全うし
て行った普通の人間を、何よりも尊敬する。


          【空を飛ぶ鳥のように】

             クシャナ


 「風の谷のナウシカ」の登場人物。軍事国家トルネキアの、辺境
派遣軍指令官である。若くて綺麗な女性である。最終戦争によって
現人類の文明が崩壊してから1000年後の世界で、人類は、毒素
を放出する植物の繁茂する「腐海」からの汚染物質と、そこをねじ
ろに飛来する「虫」たちに脅かされながら、ほそぼそと生活を続け
ていた。クシャナは、人類の生存を脅かす虫と、彼らの住処である
腐海とを、伝説のバイオ兵器「巨神兵」によって消滅させ、ふたた
び人類の黄金時代を築き上げようとする。

 この映画そのものに、国際野生動物なんとか基金のクレジットが
入っている事から想像つくとおり、この作品の正義は主人公のナウ
シカにある。なぜなら、ナウシカは、「失われた大地との絆」を復
活し、虫や腐海との平和な共存を目指し、自分の危険も顧みずに争
いをやめさせようと、最後には暴走するオーム(巨大節足動物)の
群れに立ちはだかって、これを阻止するのである。まさに、絵に描
いたような良い子のおねーさんである。おまけに、可愛くて素直で、
少しおきゃんなとこもあったりして、ほとんどすべての男の目尻を
へろりんとさせる魅力だってもっている。まことにわかりやすい魅
力である。僕もこういう「女の子」は好きです、はい。
 いっぽうのクシャナ、彼女は冷酷で暗い。目的遂行のためには平
気で殺人を命じ、弱小国家を力でねじ伏せ、自分の理想を他人に押
しつけて協力を強いる。しかも、彼女の虫に対する攻撃の底には、
どうやら個人的な恨みがあるらしい。片腕と、「我が夫となるべき
者」以外には見せられない部分は、虫によって喰い荒らされた無惨
な身体なのである。男なら平気だなどとは言わないが、若い女性に
とって身体を損なわれる事は、時には命を投げだしたほうがましだ
と思えるほどの苦痛であり、屈辱のはずである。虫たちに受け入れ
られ、国民から姫さまと慕われて平和に暮らしてきたナウシカと比
べれば、心だって歪みもしようというものだ。

 しかし、僕は、地球生命共和国の議長ではなくて人間なので、ク
シャナを支持する。クシャナの理想は、僕にとって正しい。年々増
殖を繰り返し、人類の生存地を圧迫して破滅に追い込む腐海。そし
て、飛来して人々を襲う虫たち。これらの人類の敵を駆逐し、ひと
びとが安心して暮らせる世界を取り戻そうとする彼女の計画は、人
間なら当然の行動であると思う。ナウシカの地下室の研究では、腐
海は汚染した土を浄化する働きをしているらしいことがわかる。し
かし、そのために腐海の増殖を肯定するのは、弱い国の人たちに滅
びてしまえという事である。めぐまれた一部の国家だけに許される、
綺麗ごとの理想論に過ぎないではないか。

 最近の風潮では、「自然」はいつのまにか「優しい」とか「人間
が守ってあげるべきもの」とかいう存在にまで引き下げられてしま
っている。僕にはそれは、無知ゆえのとてつもない思い上がりにし
か思えない。たとえ原子爆弾で全ての生物を破壊しようと試みたと
ころで、そんなものはほんの数十億年もすれば、何事もなかったか
のように忘れ去られてしまうだろう。自然は、優しくもなければ弱
くもない。地球が汚れるだの地球の悲鳴が聞こえるだのといった擬
人化した表現は、自分自身の生活にとって不便なことがフィードバ
ックされてくる事に対する心配を、「自然」とすり替えて高尚な気
分に浸っているだけのお調子ものの街頭演説である。
 我々にとって本当に大事なのは、自分たちの種族がずっと安定し
て繁栄していくための環境である。短期的な利便のために、長期的
には破綻するような行為は当然避けねばならないが、頭の中だけで
考えた「生物界のバランス」のために、弱者を切り捨てようとする
のは、我々人類にとっての正義ではあるまい。もしも、なんの罪も
ないひとりの人間の命と引き換えに、珍しい生物の絶滅が回避でき
るとしても、僕は迷う事なく人間をとる。それが人間として当然の
選択ではないか!

 誰もが運命として受け入れ、もはや逆らおうとする気力さえ持て
ずに、虫の襲撃から逃げまどうだけの人たちの中にあって、その動
機はなんであれ、人類の尊厳を賭けて果敢に戦いを挑もうとするこ
の少女に、僕は、ナウシカに対するのとはまったく別の種類の、い
とおしさを感じる。

          【空を飛ぶ鳥のように】

          ザイ=テス=シ=オン


 日渡早紀の作品、「僕の地球を守って」の、たぶん主人公である。
地球とは別の星の戦災孤児として幼年時代を過ごし、屈折した心を
持つ天才エスパーに成長した、青年科学者である。彼は数名のスタ
ッフとともに月面基地に勤務し、現在の地球を監視するのが仕事で
ある。ざっと粗筋を説明すると、彼らの母星は戦争によって消滅し、
彼らは月面に取り残される。やがて伝染病によって全滅するのであ
るが、シオンはひとりだけ血清を注射されてしまい、パートナーの
モクレンが死んだ後、たったひとりで9年間も生き続ける事になる。
 やがて、かれらは記憶をもったまま地球人に転生する。高校生活
を送るうちにひとりづつ過去の記憶に目覚め、過去の記憶に振り回
されながらも、みんなで「いま」を生きていこうと頑張る、そうい
うストーリィである。もちろん、謎解きの楽しみだって盛り込まれ
ている。
 少年向けの漫画が、皮相的な恋愛や暴力を好んで取り扱うように
見えるのに対し、少女漫画の扱うテーマは、その深さに感心させら
れる事が多い。こういうものを読んで育つ若い女性たちの目から見
たら、ちゅうねんのとっつぁんのホレタハレタは、お子様ランチの
レベルにしか見えないだろうと思う。

 群れから突出した能力を持つが故に、人並み以上の生活を手に入
れる事ができた少年は、その能力の故に、孤独である。芥川の「薮
の中」を連想させる手法によって語られる登場人物たちの回想で、
それぞれの主観による世界が提示されているが、各人の認識のなか
でのシオンの姿は、いつも孤独である。
 そんな、理解してもらえる仲間を持たぬ孤独な青年が、初めて出
会った同類が、特殊な能力を持つエスパーの女性、モク=レンであ
った。彼らは、魅かれるがゆえに反発し、そして心を閉ざす。やが
て二人だけが生き残り、お互いが愛されていないと誤解しつつ、お
互いを愛し合う。
 平和な人々は、自分を傷つけないようなかたちに歪めて世界を見
つめ、孤独に心を病んだものたちは、自分を傷つける事で自分を守
ろうとする。やがてモクレンは死ぬ。ひとり残されたシオンの孤独
は、なまじ希望のあったが故に、とてつもなく深い。
 孤独な男にとって一番恐いのは、暴力でも屈辱でも羞恥でもない、
自分を理解してくれる存在、唯一対等の仲間を、失う事である。ま
してやそれが恋人であるなら、それは自分の命よりも重い存在であ
る。誰かのために死ぬのは、たいした愛情がなくても可能だが、誰
かのために生き続けるというのは、なまはんかな愛情でできること
ではない。

 現世で記憶を取り戻したシオンは、9才年上の現世のモクレンに
言う。僕と結婚しなくてもよい、この地上で、君が幸せに生きてい
てくれるのなら、それだけで僕は生きていられる、と。

 恋愛と友情とセックスの間には、さまざまな関係とかたちがある。
男の作家たちの描きたがる世界のそれは、おそろしく単純で底が浅
い。純粋であることや正しくあることが、できそこないの先輩たち
の嘲笑の対象になるという羞恥からなのか、あるいは、本質的にそ
ういうことがらに興味がないのか、性を描いて恋を描けず、欲を描
いて愛を描けぬだけの、浅い作品が多いように見える。
 
 モクレンを手に入れる事で、モクレンを失ってしまったと思いこ
んでしまったシオン。モクレンに生き続ける事を願われ、絶対孤独
の中で彼女の存在した事実だけを支えにして生き続けたシオン。遅
れて生まれ変わり、モクレンとは結ばれそうもないと悟り、それで
も彼女の存在することだけを心の支えに、新しい生を生きていこう
とするシオン。他人からは、その心の「飢え」が見えぬため、孤独
であり続ける理由が理解してもらえぬシオン。
 突出した能力のため、男には対等に扱ってもらえなかったモクレ
ン。初めて、自分を理解してもらえそうな予感に、シオンに魅かれ
ていくモクレン。シオンに抱かれた後、自分がしっぺがえしの道具
にされたと誤解するモクレン。ゆがんだかたちであっても、シオン
を手放したくないとすがるモクレン。自分の美貌ゆえに、偽りの愛
で近づく、所有欲と見栄だけの男たちに失望し続けてきたモクレン。

 シオンは、モクレンただひとりと全世界を天秤にかけ、モクレン
を選ぶ。人の命は地球より重いという陳腐な偽善の例えの真の意味
が、ここにある。恋愛は主観である、すべてのその他大勢は、ひと
りの特別な対象の前に、いかなる存在価値をも持たない。転生した
少年の意識と対立して葛藤するシーンで、シオンの透明な炎が燃え
る。モクレンに横恋慕する玉蘭、孤独を知らぬ優等生のアプローチ
は、モクレンには無力である。しょせん凡人に過ぎぬ玉蘭には、ふ
たりの間にある強い絆が見えない。互いの孤独の重みを知るふたり
の間に立ち入れる人間は、存在しないのである。

 がんばれ、シオン


          【空を飛ぶ鳥のように】

             前田慶次


 原哲夫作、「花の慶次」の主人公である。時代は戦国、織田信長
が死んだあと、豊臣から徳川に支配が移ろうとする、乱世の尻尾を
引きずったころの物語である。
 僕はあまり、時代小説のたぐいを読まない。ドラマも見ない。な
んというか、やたら説教くさい「葉隠れ」とかなんとかいうたぐい
の哲学がぷんぷんしたり、こてんぱんに負けた軍隊の精神主義や、
囚人頭の集団スポーツの指導者を連想したりして、嫌な気持ちにな
るからである。たかが物書きのアタマで、大昔に死んでしまった侍
たちのことを、ノンフィクションのように書いたところで、僕は満
足しない。天才織田信長や明智光秀の行動のほんとの動機など、凡
人にわかるはずはあるまい。
 そんな僕がこのマンガを全巻揃えて読んだわけは、単純にこれが
おもしろかったからである。線香の臭いがしそうな、あるいは、安
物の高級車のようなお手軽な「義」や「男」が臭うような、そんな
物語を笑い飛ばすように、この作品は明るく、そして楽しい。
 
 前田慶次は傾き者である。傾き者というのは、「自由な人」くら
いの意味を持つ。なにものにもとらわれず、仕えず、自分の信じる
もののためだけに命を賭けて生きていく、そういう連中のことを意
味するものであるらしい。諸家に召し抱えられる武士たちが、安定
した生活や後ろだてと引き換えに手放した魂の自由を、何よりも大
切に思う種類の人々である。
 同じ職務につきながら、自らを「サラリーマン」と称して生きる
ひとたちと、営業やあるいは事務のプロフェッショナルであると称
して生きるひとたちとの違いは、ひとえにこの、自分の生きざまに
対する認識にある。
 組織の和や世間体、生活の便宜というものは、自分が自分であり
続けることに対する誇りと比べるには、あまりに軽い。しかしまた、
その誇りは、守るために多くの困難を伴う。愛するもののために屈
辱を甘んじることで貫く誇りもあれば、勇気のなさ故にそれを嘲笑
することで失う誇りもある。いずれにしても、自分を欺くことだけ
は誰にもできぬ。
 傾き者の外見だけをまね、それを支える心の強さも、はたまた肉
体の強さも持たずに踊るものたちは、運が悪ければたちどころに命
を失う。そこに描かれる世界は、自由と隣り合わせの危険を冷酷に
物語っている。
 とかく自由という言葉には、それを否定したがる老人のつぶやき
がつきまとう。静かな絶望だけを老成と信じたいだけの男の残骸ど
もには、死を目前にしてなお明日を夢見るひとたちの、未来に賭け
る心意気など、若輩者の幼稚な増上慢にしか見えぬのだろうか。そ
んな疑問を僕の心に投げかけながら、物語の中では多くの男たちが
生き、そして壮絶に死んでいった。
 
 前田慶次の生きざまは強く、潔く美しく、そしてさわやかにかっ
こよい。背が高く男前で女にもてて頭がよく、酒は強いわ書や詩歌
には明るいわ、剣の腕は強いわ、およそ考えられるあらゆる点で、
男が考えるすべての長所を持っている。彼に限らず、この物語の中
に登場する男たちはみな、たいへんかっこよい。読んでいて気持ち
良いかぎりである。暗くめめしい物語を好む人たちの中には、自分
よりみすぼらしい人格を見る事によって勇気づけられるという人も
いるらしいが、僕には共感できない感覚である。
 現実のきびしさにくじけそうになったとき、僕なら、美しい夕焼
けのようなすがすがしい物語に触れて元気を出そうとするが、こう
いう人たちは、便壷にうごめくまっしろなうにょうにょを眺めなが
ら、ああ、ここにもまた、おれよりずっと惨めな生き物がいる、等
と自分を励ますのであろうか。僕がそういうものの中に見つけたい
のは、慰めではなく生き物の真実の姿だけである。うちひしがれた
ときに見たいとは思わない。

 この物語の中に流れているのは、「粋」というセンスである。す
べての飾りを取り去り、自分が自分である最低限のところで自分を
主張する、あるいは、ものごとの本質を問う、そういう、キンキン
に張りつめた緊張の上を軽やかに駆けるように生きていく男たちの、
一期一会のドラマの中に、このあとの平和な元禄時代におとしめら
れた「粋」という言葉の、本来持っていたほうの意味を感じるので
ある。


         【空を飛ぶ鳥のように】

             ガメラ


 ガメラは怪獣である。太古に滅びたアトランティス文明の時代、
自分達のこさえた生物ギャオスが手に負えなくなり、彼らがその抹
殺のために創り出した人工生命体である。身長80メートル、体重
120トンという、わりと現実的な数字が設定されているところは、
東宝の怪獣より好感がもてる。しかも、大砲やミサイルでちゃんと
ダメージだって受ける。プラズマ吸収と発射メカニズムのあたりで
怪しくなってくるが、生体内の電流や磁場は現実にあるのだから、
やってやれないことは無いのかも知れない。なんせ、15万トンの
ロボット、メカゴジラだって空中に浮かぶ世界なのである。

 ギャオス迎撃兵器であるガメラは、人類の味方ではあっても正義
の味方ではない。打倒ギャオスだけが彼の目的であるので、街をぶ
ちこわし、人間を踏みつぶし、おおいなる目的のためだけに進撃し
ていく。ここらへんは、大映のもうひとつのキャラクターである大
魔神と似ている。たまに女の子を助けたりする事もあるが、ビルを
無頓着に壊しながら突撃していくところは、冷たいもんだ。彼が守
ろうとしているのは人類の文明であって、にんげんひとりひとりや、
街のひとつひとつではないのだろう。
 
 ガメラの戦いぶりを見ていて、ふと医療のことを考えた。強力な
伝染病が発生した場合、それが家畜なら、ただちに屠殺して焼却す
るので、被害は最小限にとどめられる。人間の場合は、もちろん殺
すわけにはいかないので、現実の問題として被害は拡散する。これ
は、人体内での病巣にもあてはまる。患部をごっそり摘出できるな
ら、癌の治療はたいして難しい作業ではないのだが、それが人体に
とって必要であるがゆえに、それができない。

 ガメラは、ギャオスに対する特効薬であるが、その副作用は強い。
わずか3体のギャオスを撃滅するために、ふたつの都市と石油コン
ビナートが破壊され、無数の人命が失われた。ガメラには目的以外
のものにたいする遠慮というものはなく、ひたすらギャオス撃滅だ
けを遂行する、マシーンであるように見える。
 しかし一方、このようなストレートな行動原理は、戦闘において
きわめて有効な攻撃を可能にする。喧嘩でもそうだが、相手のこと
や明日のこと、他人の目、叩きつぶす相手の家族、周囲の壊れやす
いもの、そんなものに気を取られていたのでは、勝てる喧嘩も勝て
なくなる。侵略と破壊が目的のギャオスには、もとよりそんな足か
せはない。通常の、悪者対正義の味方の一騎討ちにおいて、正義の
味方がピンチにおちいるのは、たいていこのハンディキャップによ
る。

 ガメラには、このような甘さがない。それゆえに政府はガメラを
恐怖し、自衛隊を繰り出して攻撃する。攻撃を受けたガメラは負傷
し、深海で回復のために休眠する。人間なら、自衛隊や政府に向か
って抗議するところであるが、ガメラは無視する。ひたすらギャオ
ス迎撃のためだけにふたたび出撃し、地中をばく進して街を破壊し、
ギャオスの巣を叩きつぶす。ここらへんの戦いぶりは、見ていて感
動的ですらある。パンフレットの中で爆風スランプが、「ガメラは
サムライみたいだ」と言っているが、まさに同感である。
 恐くて乱暴で無神経で一徹、そして絶大なパワァー、ガメラはま
さに、サムライである。平和に暮らす庶民にとっては、いなくて済
めばこしたことはない迷惑者。よた者に虐げられている人にとって
は希望の光。誰のコントロールも受けず、組み込まれた目的意識に
忠実に戦い続けるガメラ。ギャオスとなあなあでやっていれば傷つ
くことなく好き勝手に生きて行けるのに、ガメラは戦いを選ぶ。

 そんなガメラとたったひとり意識を接触させるのは、高校生の少
女である。これもまた大魔神と同じだ。少し違うのは、ガメラは少
女のために戦うのではなく、ただ意識を通わせるだけである。両者
の間には主従の関係も依頼も懇願もなく、ひたすら対等な関係、お
互いを理解しあおうというつながりだけがある。
 まるで、不器用な父親が、自分の生きざまを見せることで娘に語
りかけるように、ぼくとつな青年が、かざらぬ自身の生きざまを見
せて恋人に問うように、ガメラはもくもくと戦いに挑む。

 ベビーゴジラのためにスペースゴジラをやっつけにいくゴジラは、
たしかに親子の愛情を表現しているのだろう。だけど僕にとってよ
り印象に残ったのは、こちらの、なりふりかまわず敵に突進して叩
きつぶして黙って去っていくだけの、自分の生を懸命に生きて行く
だけの、ガメラのほうである。



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