自己犠牲
この苦しみが、誰かの役に立つのなら誰かの希望の光になるのなら犠牲になっても構わないそういう愛の表現の仕方も、ある。子供のために家族のために周りの人のために社会のために自分自身に我慢をさせたり、不本意なことを引き受けたりすることは誰にでもある。私は、そのエネルギーが苦手だ。相手のことを純粋に思い、始めたことであっても自分自身に負荷がかかったり、望み通りの結果にならず、心のバランスが偏るとそのエネルギーは、攻撃や憎しみに変わる。頭と心では、相手のことを純粋に思って始めたことだと感じているかもしれないけれど。。見えない世界では、人のためにやっていることなど、なにひとつない。私のためにありがとう家族のためにありがとうみんなのためにありがとうあなたのおかけで、幸せですそんな周りからの言葉達が、犠牲的に傾いている状態を支えるのかもしれない。なんで自分ばっかり、こんな思いをするんだろうせめて、感謝して欲しい!誰かの役に立っていたいと思っている状態の時既に自分の力だけでは元の場所(フラットな状態)に戻ることが難しいのだと分かった。そんな時に、必要なのが「救い」なのだなぁ。私の人生は思い通りではなかったけれどせめて子供だけは、家族だけは、思い通りの人生をと思いながら生きてきた人達にとって、「あなたのおかげで、私は幸せです」という言葉は「救い」なのだなぁ。私は、過去世でひとりだけ生き残るという体験を何度かしている。その度に、味わう絶望と悲しみ。そして、罪悪感。犠牲の上に生かされる自分のいのちと向き合い続けている。いのちの重さは同じなのにそんな思いが私の根底にながれているので、犠牲的なエネルギーが苦手なのかもしれない。どうか、犠牲的に傾きすぎないで欲しい。あなたが誰かを大切に思うようにあなたも大切に思われている犠牲の上に成り立つ幸せなど、愛の世界には、ない。どうぞ健やかに🌳