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やさぐれ同盟

不安定な午後の曖昧な陽射し

[不安定な午後の曖昧な陽射し]

 仮想敵国の言葉できらびやかに粉飾された宣伝広告が幸福を強制する。ぼくらは疲労に骨髄から蝕まれ、ぼろぼろに崩れ落ちていく。ぼくらの死体は腐敗することを許されず、きれいに焼かれて清潔な灰になり、ベランダに咲くベゴニアの肥料にもなりはしない。何かが間違っていると誰もが思っているが、それこそ間違いだ。すべてが間違いなのだから。幸福を売りつけられるのはもうごめんだ。ぼくらは売り払われる以上のものを略奪するだろう。奪い、犯し、殺し続けるだろう。世界の半分は流された自らの血液の海で溺れかかっているのだ。ぼくらは与えられるもの、すべてに唾を吐く。花という花を手折り、井戸という井戸に毒をこぼし、皿という皿に脱糞する。田舎の練瓦造りの家で暖炉の火にあたりながら思い出話をする老夫婦がそうあれかしと願うような人生のあるべき姿とやらを台無しにするために、自殺など思いもせずに惰眠を貪り、恋人たちの睦言にひっそりと四文字言葉を投げかけ、汚らしい精神異常と十字砲火のような欲望の疼きを愛する。生を! ぼくらは母の胎内から引きずり出された瞬間から、この生を愛するように定められていたのだ。決して、掴むことの出来ない幸福を追いかけるために生まれたわけではない。
 
 ある失敗した結婚の結果として、ぼくが生まれたことは確かな事実だ。空気の足りない集合住宅の一室で、あるいは理想主義が予定調和の繰り返しの中で立ち腐れてしまう義務教育のために、ぼくは気がふれてしまった。ある日、ぼくは詩人になった。意味もなく歩き回り、夜中家族が寝静まるのを見計らってノートに蟻の這い回ったような文章を書き綴った。壊れた計算機の演算過程、あるいは精神の溶鉱炉。いずれにしろ妄想の回路は、はっきりと目に見える形で現れて、ぼくという人間の滑稽さを一日一ページという正確さで表現していった。それらの言葉を切り刻み、解剖しながら、ぼくは詩を作っていった。ぼくに必要なのは詩魂ではなく、文才ではなく、建築免許だった。ぼくは過剰な情緒を、詠嘆を、啓蒙を憎んだ。精神分析的な解釈、神秘学の言辞を嘲笑した。ぼくにとって芸術とは厳密な唯物論であり、文学とは正しさではなく正確さを表現する理論体系だった。その体系の一部になることを、何より欲したのだった。

 太陽は癌に蝕まれ、病んだ光で惑星の文明に影響を与える。監獄の中で監視付きで暮らす方が健康には良さそうだ。良識ある市民であるところのぼくらは、すでに手遅れだ。ぼくらはみんなで仲良く日光浴しながら、ゆっくり死んでいくだろう。埃っぽい風が都市の上空を吹き荒れ、遥か遠くの海岸を津波が洗う頃、内側からこの星は崩れていく。熱量的死から永劫回帰の論法を強引に孫引きして、観念によって仮縫いされた歴史を延命するのは、異星の天文観測者の役目。

 一人の女がいた。名前は忘れてしまった。ぼくは彼女を愛していたし、彼女も時々ぼくを愛した。ぼくらは渡鳥がとまり木の上で羽根を休める間の話し相手に選びあったという感じで、他愛もないことに熱中し、飽きもせずお喋りした。彼女の鞣革のような肩に口づける時、ぼくは自分が何か間違ったものを手にしてしまったかのように混乱する。「快楽って素敵よね」と彼女は笑うのだった。ぼくにはよく分からない。だが、人間とはまず肉体であり温度である。彼女の背中に手を回すたびに、皮膚と皮膚を擦りあわせるたびに、それを感じた。濃密な時間は脳幹を焼き切るような無感覚の中に溶け込んで、いくつかの言葉がたどたどしく繰り返されるだけ。彼女は小説家だった。ワープロのキーをマシンガンのように打って、うっとりとしていた。彼女の小説は言葉本来の意味で暴力的だったし、彼女はそのような小説しか好まなかった。彼女が原爆のような小説を書いている横で、ぼくは真っ白い綿毛のような詩を読んでいたハイネ詩集。”神は僕達の接吻の中にいます“ ぼくはせせら笑った。古きよきロマン主義の時代よ、永遠なれ! 本を放り投げ、ぼくは目を閉じて考えた。果たしてこの世界は真に生きるに値するだろうか。ロマン主義者のように情熱を生きる糧とするには、人類は悲惨さを知りすぎた。砂漠では子供が腹を膨らませて蠅にたかられているし、裏路地では乞食が唾吐かれ、寒さに凍え、蹴り殺される。地図に載ってないような小さな村では虐殺された死体が花の肥やしになっている。第三世界の犠牲の上に成り立ったぼくらの退屈な日常、ぼくらの生活のどこもかしこも血塗れなんだ。ぼくらが生きることは、どこかの異国の貧しい家族を皆殺しにすることだ。ぼくらが、いや、ぼくが殺しているのだ。本当に生きるに値するのか? ぼくらは今すぐ首を吊るべきなんじゃないのか? 耐えきれずに、ぼくは口走った、「ぼくらは滅ぶべきだ」 彼女はタイプする指を止めた、痛くなるほどの静寂が気紛れな悪魔のように訪れた。彼女は表情のない顔でぼくを眺め、突然立ち上がるとぼくの胸ぐらを掴み殴りかかってきた。彼女の一打一打に激しい怒りを感じた。砂場の砂をまるごと吹き飛ばしてしまう暴風雨のような激しさだった。彼女が何か言っているのが聞こえたけれど、分からなかった。視界の隅っこで太陽が沈んでいくのが見えた。ぞっとするくらい綺麗な赤、夕焼けの色は大気が汚れれば汚れるほど美しいのだ。彼女の髪がその陽光を透かして空気に溶けてるみたいだった。夕陽に照らされた部屋にぼくらの影が長く伸びて震えていた。血液が逆流しているみたいで吐き気がした。ほっそりとした、その指で彼女はぼくの喉を絞める。千切れそうな頸動脈の流れの中で一つの言葉が何百万もの指によって虐殺されていく。

 にじり寄ってくる死の衣擦れの音。運命は一寸先で大口開けて待っているのかもしれない。脚をもぎ取られた鳩みたいに飛び続けるしかない。疲れても枝に止まることができない。燃料切れのエンジン、前線に取り残された兵士達。あるいは、土に埋まった産業廃棄物のようなものなのか。
 もう一人、少女がいた。彼女は喉を癌に喰い潰され言葉を失った。抗癌剤の副作用で髪がごっそり抜け落ちた。身体が縮んで、まるで子供と変わりない背丈になっていた。浮き出た鎖骨は触れるだけでへし折れそうだった。別人のように成り果ててしまった彼女のかつての美しい姿を思い出そうと、ぼくは彼女の前から逃げ出した。人が死ぬということが、どういうことだか知っている? それは本当に、思っている以上に酷いことなんだ。さまざまな宗教が死を弄ぼうと優しげな顔をして近づいてくる。金糸で編まれた座布団や、目が眩むばかりの袈裟、手をつけられずに腐っていく籠詰めの果物、檜の棺桶、花花花・・・抹香臭い、それらの儀礼をありがたがる親類縁者達の訳知り顔。死者はどこへ行ってしまうのか、その問に答える者はいない。焼かれて灰になり埋められる、要はそれだけのことなのに、どうしてぼくらは、あんなに苦しい思いをしてまで生きながらえねばならないのか。彼女は全身を死に強姦され尽くしてもなお、ぼくらに向かって笑ったのだった。その微笑みだけは、かつての古風な美女の縁を残していたのだった。その奇跡の微笑はぼくの脳裏に永遠に刻印され、死の印象をいささか神秘的に彩るのだった。あの美しい少女はぼくに謎かけをして逝ってしまった。途方もない宿題を課せられたぼくは、少年期のほとんどを死について考えることに費やしてきた。
ある日、死神がぼくの枕元に立って、こんなことを言う、
「お前は、27才で自殺するよ」
 ぼくは半分眠りながら、そのことについて考えてみた。あと3年、つまりはそういうことだ。その3年間をどう過ごすべきか、思案を巡らそうとしたのだけれど、ぼくは眠くて、とてもとても眠くて、瞼の上でタップダンスを踊る睡魔の誘惑に耐えきれるはずもなかった。
 祖父が農薬をあおって死んだという知らせが入ったのは、その夜遅く、みんな寝静まった頃だった。寝床で息をひそめていたぼくは、まるで酔っているか、アシッドをきめた時みたいに頭の中がぐらぐらしていた。その押し寄せる波のような混乱の中で、死神が「死がとり憑くぞ死がとり憑くぞ」と繰り返し囁くのが聞こえた。本当に電話線を通して死神の冷たい足音が聞こえてきたみたいだ。
 翌日、母は飛行機に乗って田舎へ帰り、ぼくは学校へ出かけて行った。ラッシュアワーの人並みを、まるごと抱えこんだ私鉄電車の胎内で、視界が漂白されたような突然の目眩に襲われて、ぼくは平衡感覚を失った。猛烈な嘔吐感が喉元を破裂させかねない勢いでやって来て、ぼくは脂汗を滲ませて、凝縮された空間に凍結されたような気分で電車が駅につくのを待ち焦がれた。電車が駅につき扉が開くと、数人を蹴り飛ばして外に出る。運のいいことにすぐ目の前にトイレが建っている。飛び込んで、臭い立つ悪臭に耐えながら便器を抱え込むように座り込む。嘔吐感は鼓動とともにやって来るのに、実際に吐くことはできない。「死がとり憑いた」と死神が便器の中に顔を浮かべて言った。「糞野郎」吐き捨てて、水を流した。頭が痛い。もう学校に行く気など失せた、家に帰ることにしよう。頭の中のラジオがホワイト・ノイズをざらざら。足取りはおぼつかないボックスを踏む。血管の中に水銀でも流し込まれたようだ。これから、どこへ行けばいいのか? もちろん、答えは返って来ない。

 人類学は、無人類学へとその名を改めるだろう、例えば、水色の夕焼けのように。ぼくらの行動を規制する遺伝子の鎖の綻びを塞ぐ穴のないように。もう帰れない、アフリカの大地に郷愁を覚えることなどない。サバンナに吹く風は熱いだろう。象の墓場に神は雪を降らすだろう。黒い肌は血のように濡れるだろう。野生の砂が眼球を傷つけるだろう。それは、きっと美しいのだろう。美しいという言葉が、空の彼方でのたうちまわるほどに。
 砂漠から連想する、あらゆる情景には比喩が含まれる。ぼくらの観念に凍てついた恐怖を送り込む。それを砂紋の波模様から解読したのは極東の天気予報士で、誰もが逃れられぬ未来の光景を直接、脳神経に刻み込まれたのだ。すべて文明は滅び、砂に帰る。歓喜の歌を歌いながら屍骸を掘り返し、首を抱きながら交接する。尿道が痙攣し、狂おしい疾病を子宮に満たす。肺が汚物で迸る時、心房の中で血が腐っていく時、透明な組織液がぬるぬると指を汚す時、俺は生命なのだ、と感じざるを得ない。生命! ただそれは、失われることのすべて。見捨てられた損害の総体。方向を失った重力。生命! 偉大なる生命の躍動だ。生きよ、ただ生きよ屈辱せよ。俺たちの行為は失禁だ。聖なる吃音だ。折れた矢を、弓につがえよ! この生を愛せ、卑小な畜群どもよ! 遺棄する為に殺さねばならない。死よ! ぼくは気づいてしまったよ。お前を、誰かと輪姦することが生きるということの意味だ。

 言葉が霞んで消え入ってしまいそうだ。ぼくは自分の詩を認めたノートを捲って深い絶望の底に叩き落とされている。そこは意外に居心地が良かったりするのだけれど、現実が目覚まし時計のような律儀さで引っぱりあげようとするので、落ち着いて膝を抱え込んでもいられない。鉛筆を舐めながら、新しい言葉を引っ掻くように白紙に書き込んだ。何も考えずに、思うままに、目につくものを片っ端から書き殴っていった。そのうちに、それらを繋ぐ形容詞が閃いてもってまわった偶然を装った文脈が生まれた。その、空気が帯電したような瞬間が好きだ。その時、ぼくは確かにぼく以外の何かに夢見られているのを感じる。一遍の詩が生まれる瞬間に何かが失われ、何かが祝われている。生まれた言葉は、わずかにその残滓を滲ませるだけに過ぎないが、その最も生命の戦慄くのを感じる場面の誇るべき残骸は、書かれたその時にまた別の意味を引き寄せている。

「なにひとつ意味のないことがしたい。そんな風に思い続けて生きてきたのに、無理のようだこの世界は俺にとっては恐ろしいくらいに単純で、すべてが何かひとつの巨大な意思のようなものに奉仕しているような感じがする。俺たちは、それに流れ込んでいくちっぽけな記憶の泡粒に過ぎなくて、その記憶も借り物のお仕着せだ。恐らく、俺たちが考えている以上に、過去と現在と未来は境を接しあっているんだろう。どこへ行くかは最初から決まっている。だから俺も行くことにした。茶番は終わりだ、夢を見させられのにも飽きた」

 だが、それでも書かなければならない。だが、一体何を? 記述する手は永遠に躊躇いながら、生まれてはじめて他人の髪に指を通す時のように緊張する。死後硬直のように動かない。折れてしまえ、何も生みださない手など。日々の生活にしがみつくための腕など。撃鉄を起こさないなら、引き金を引かないなら、キーを叩くしかないはずだ。世界は、こぼれる言葉を待っているはずだ。消え入りそうな声に耳をそばだてているはずだ。例え、そうではなくても、書かねばならない。すべての歌は、歌われるために存在するのだ。意味などなくても、価値すらなくても。その喉が震えるかぎり、叫ばなければならない。なぜ? 問う者は、単に問う者であり続けるだろう。問わぬ者こそ、語る者だから。

 でも、これは奇跡なんかじゃない。目が眩む。かけがえのないものが、壊れてしまったあとに、はじめて人は何かを想像する。だが、いくら想像しても、想像しきれない何かが、靴の裏に粘ついて、決心を鈍らせる。まだ、足りない。遠すぎる。そのスカートの裾に手が届かない。背中に滲む血のような汗が、腐った匂いを放ちだす。神は賽を振った。その目に賭ける。夕陽に照らし出されたチアノーゼ。幕が上がる。何か喋らなければならない。手遅れになる前に、ぼくは語らねばならない。やらなければならないものこそ、その人間のすべてを象徴する。ぼくは拳を握った。霞む視界の向こうに見え隠れする女の眉間を殴った。一瞬、漂白する情景。倒れた彼女が起き上がろうとして手をかけたテーブルの上からワープロが落ちる。放り捨てられた詩集の上に血がこぼれ落ちる。彼女の体内に大切にしまい込まれていた血液だ。赤く、赤く、鮮やかに赤く、痛みは生を死を薄汚く傷つけている。

 語るべきことは何もないはずなのに、何か語らねばならない。喉は朽ちかけた歌声で張り裂けそうだ。そこで、私はまた幾つかの美しい言葉を口籠もる。誰にも聞かれなかった無意識の領野でそれは音もなく谺する。いま私の目の前に居並ぶ見知らぬ聴衆たち、その色とりどりの顔、彼らは知っている。この世には、もはや耳を傾けるべき話などありはしないのだと。私も知っている、すべて言葉とは思い出を紡ぐための縒り糸に過ぎないのだと。だが、それでも、ああ、それでも……
雨があがった。一転、空は重力に逆らった海のように小波を寄せていた。「空って、こんなに青かったんだね」とサキがいった、「本当はこんなに青かったんだ」 余韻を語尾に滲ませる口調で彼女は洩らした。咲き乱れた花が、濡れて光っている。色彩はすべて花に由来する。太陽が何もかもを同時に祝福するかのように燦然と……読みかけの詩集に栞がわりの鳥の羽をはさんでケイトはサキを見た。それから、空を。「そうね」ケイトも生まれて初めて口を聞く子供のように慎重に、大切なものを守るように話した、「痛くなるくらい」 確かに、その空は青かった。二人は高原の小高い丘の上に立つ砂糖楓の木の下に置かれた白いベンチに座っている。サキは煙草をふかし、ケイトは本の表紙を撫でていた。不安定な午後の曖昧な空気が霧のように二人の足元を揺れ蠢いている。風が雨に重く濡れた草を身震いさせ、舞い上がった細かい雨滴が陽光に晒され、虹が光った。「あ…」少女たちは二人同時に声を上げる。「虹だあ」 二人が見下ろす草原のそこかしこに、小さな虹が花のように生えて、繋ぐ必要のない岸辺を接した。ここにすべてがあるかのような錯覚が辺りに鳴り響いた。それは音だ。例えるなら、矢印が世界の中心に突き刺さるような痛みだ。秋の訪れをささやかに呼び込む金木犀の匂いだ。誰かのために心を込めて折る千羽鶴だ。いや、そこには何もないのかもしれない。空虚な穴の中に流れ落ちる血液の流れだ。歌を歌わない宿り木の小鳥だ。寒さに震える子供に差し出された腐ったワインだ。何の意味もない! 
「きれいだね」サキが煙を吐き出して、洩らした。
「ええ、きれいね」ケイトが目を細めていった。
すべてが輝いて見えた。満たされていると感じた。目に映るものがみな柔らかく、いい匂いのするもののように感じられた。美しいという言葉は不思議と思い浮かべなかった。そのかわり、何故だか寒くなった。だれかが、時間に氷を浮かべたみたいに。ひっそりと夜が訪れるように。少女たちは見えるものの中で、見えるものを、ただ見ていた。
「サキ、灰が燃え落ちそうよ」
サキは煙草を踏み消して、立ち上がった。「ケイト、走ろう!」
ケイトの手を取って、サキは草原を駆けおりた。濡れた草が二人の足元で弾けとぶ。また、風が吹き、新しい虹が生えてくる。その中を二人はくぐり抜けた。呼吸はたんぽぽの綿毛のように白い。本当に気温が下がったのかもしれない。下生えに足を取られてケイトが倒れた。瞳孔が閉じるほどの空が、ケイトの視界を塞いだ。濃淡の無い空間に一人、投げ出されたかのようだ。寒い、と彼女は思った。
「どこまでも行けると思ったのに」
「本当はどこに行きたいの?」
返答を期待しない言葉が二人の間を行ったり来たりして、やがて沈黙が天使の羽が舞い降りるみたいに訪れた。背中がしっとり濡れていくのを静かに感じながらケイトは時を計っていた。一秒毎に何かが手遅れになっていく。生まれては死んでいくものばかりの世界で、無数の声が押し殺されている。言葉の缶詰を開ける、張り裂けそうな喉の震えは、まだ瞬きほどの微かなもので、だれにも気付かれずに血の巡りの中で微睡んでいる。拭いきれない命の匂いに包まれて、少女は祈りにも似た想いで待ち焦がれた。世界の螺子が外れるのを。この清浄の完全な形がぽろぽろとこぼれていくのを。サキのまなざしは行方を失ってしまった。どこを見ればいいのかわからない。何を見つければいいのかわからない。飛び込んでくるものすべてが、頭の中で空回りして、そのせいで髪が伸びるような錯覚に陥る。踵まで垂れ下がった髪は、それでも伸び続け、やがて自分を埋めつくしてしまうのではないだろうか。ケイトのように待つことは彼女には出来なかった。生きることは奪うことなのだ、失われたもの以上のものを彼女は奪わなければならないのだ。拒むことは出来ない。彼女は進み続けなければならない。

割れたワープロの画面の上に綴られた悲しみは、断ち切られることなく反響している。これは、誰の悲しみだ? ぼくの心臓がエイトビートで歌いだそうとしていた。
「それでも人生は続くのよ。ざまあないわね」
 そうなのだ。ぼくは、この世界の、祭りという祭りを無条件で祝う準備を始めなければならない。かつて、歌われなかった歌に捧げる詩句を書くために、この世の果てで死にかけた誰かに、止めを刺そう。さよなら。


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