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法門無尽 福井孝典ホームページ

1月後半

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│ FORUM2-7 第76号 1月20日(月) │
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 131万部を突破したというベストセラーに東大教授の野口悠紀雄著による『「超」勉強法』という本があります。これまでの勉強法と「超」勉強法の何処が違うのか? その比較が表になっています(p38)。
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│        これまでの勉強法     │「超」勉強法 │
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│・勉強は我慢と努力 │       ・興味と好奇心が重要(第一原則) │
│・基礎から一歩一歩確実に   │・基礎は退屈で難しいから、最低限を知っていればよい
│・部分を積み上げて全体を理解 │・全体から理解する(第二原則) │
│・ある段階を完全にマスターす │ ・八割わかれば先に進む(第三原則)│
│ るまでやる
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この基本三原則がどういうものであるのか著者の言葉を見てみましょう。先ず第一原則については「勉強は本来楽しいものだ。好奇心が満たされるとき、誰でも楽しいと思う。理解が深まると、喜びを感じる。それまで別々にとらえていたものが統一法則で理解できると、誰でも快感を覚える。これは人間の本姓である。これらを満たしてくれるのが勉強だ。だから、勉強とは本来楽しいものである。……人間は、『学習』によって他のあらゆる生物を凌駕している。人類は、学習によってなりたっている特殊な動物なのである。だから、学習は人間にとって楽しい作業であるはずだ」(p28)ということなのです。にもかかわらず、勉強が「我慢と努力」という風に感じられるのは「教材」と「学ぶ方法」が悪いからだということになります。
教材については自主的に行う勉強ならば自分で選べます。ですから興味を感じたものをどんどん進めれば良いというのが著者の意見です。学ぶ方法については、わからない箇所があると先に進めなくなって嫌になるということですから、飛ばして、先へ進めば良い、と提唱します。それが第二第三原則です。それは「上から見れば、よく見えるからである。全体を把握していると、個々の部分がどのように関連しているかがわかる。そして、多くの場合、各部分は他の部分との関連において理解しやすい」(p34)からなのです。
ただし、「誤解がないように断っておこう」として「これは、途中で止めてよいとか、食い散らかしてよいといっているのではない。むしろ、逆である。途中で別の仕事に移ると、中断してしまって能率が低下する。だから、八割までは中断せずにやりとげることが必要だ。」(p37)「私は『八割でやめよ』といっているのではない。『とりあえず先に進め』といっているのである。時間があれば、戻ってきて十割仕上げるべきだ。あるいは、十二割でも二十割でもやるべきだ」(p38)と付け加えています。
この方法論に加えて、「イメージを伴った具体的な目標を持て」ということを挙げます。「憧れのキャンパスを歩いてる自分」とか「級友にかっこいい所を見せる」とかそういう極めて具体的なものが良いとします。
私はこれを読んでそんなに「超」勉強法であるようには感じられませんでした。第一原則は当然として第二第三についても、これは一つの有効な勉強法で、従来からよく行われているもののような気がしました。受験勉強(特に大学受験)では、このやり方の方が主力かもしれません。実際に試験を解いている時には尚更です。先ず問題の全体像をつかみ、出来るところからやる、出来たと思ったらどんどん先に進み、見直しは後ということになります。 著者が言うように「人間は学習によって成り立っている特殊な動物」なのだと思います。それだけに、学習の方法はその人を巡る時間的社会的場所的条件によって実にたくさん存在しているのだと思います。例えば近年注目されているゲーム的手法によって学習するというやり方は特に小学生には相当有効なものでしょう。社会人には社会人の勉強法があります。この『「超」勉強法』は主に高校生に適しているように思われます。しかし中学生に於いても役に立つ考え方は幾つもあります。参考にするのも悪くはありません。
「あとがき」で著者は次のように述べています。「現在の仕組みの最大の問題は『勉強で可能性が開ける』というチャンスが、大学入試の段階でほぼ終わってしまうことなのである。その後では、勉強によって新しいチャンスが開ける機会が少ない。『学歴社会』とは、まさにこのことなのである。つまり、『学校教育以降の勉強の努力がカウントされない社会』という意味なのである。いいかえれば、日本では『勉強社会』がまだ不十分であることこそが、問題なのだ。したがって、『勉強しなくてもよい社会』を作ることではなく、『勉強することがいつになっても報われる社会』を作ることが必要である。(p256)」勉強好きな著者の思いがよく表れています。 (つづく)


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│ FORUM2-7 第77号 1月21日(火) │
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 『「超」勉強法』には『英語の「超」勉強法』という章があります。この本は適当な所でそれまでの要約が置いてあって、小さな形で理解出来るようになっています。この章の「まとめ」は以下のようです。(P94)
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│ まとめ    英語の「超」勉強法 │
│1、英語の勉強は、教科書を丸暗記するだけでよい。二十回音読すれば │
│ 覚える。 │
│ 教科書がつまらなければ、興味のある本を覚える。 │
│2、英語を分解して日本語に対応させる「分解法」は間違った学習法だ。│
│ (1)英語と日本語は一対一に対応しない。 │
│ (2)単語は孤立しては覚えられない。 │
│ (3)分解法だと、英語的な表現や用法が身につかない。 │
│ (4)分解法は無味乾燥で退屈。英語がつまらないと考える学生が多い│
│   原因は、分解法にある。 │
│3、受験のためにも、丸暗記で十分。 │
│4、ビジネスマンにとっての英語の重要性は、今後ますます強まる。英語│
│ ができれば、世界は大きく広がる。 │
│ (1)FENのニュースを聞く。映画の英語は適切な教材ではない。 │
│ (2)インターネットの時代には、書く英語が重要になる。 │
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著者の言わんとしていることはよく分かります。英語習得にあたって最も重要なポイントをついています。しかし先回書いたように学習者にはそれぞれの環境や条件があるのです。何か一つのやり方を、これだと取り上げ、全てにあてはまるとするのは、商業ベースでは必要な事でしょうが、矢張り無理があります。教育界には次から次へとそういうものが登場してきています。そしてそれぞれに見るべき点、新しい有効なものを持っています。それを謙虚に取り入れることは必要なことです。しかしそれだけで全てを推し量ろうとすると、誤りを犯す場合もありますので注意しなければなりません。
さて、では著者の主張するどういう点が「最も重要なポイント」なのでしょう? それは、「英語は英語としてそのまま覚える」ということです。著者は結局このことを強調しているのです。そしてこのことは英語学習の一番確かな道だと私自身も確信している所です。
私が海外勤務から帰り、この学校に赴任した4月、最初の学年新聞でそれぞれの教員が自分の教科の学習法について一言アドバイスをするということがありました。私はそれに「英語は暗記です」と書きました。それが最も生徒達に分かってもらいたい学習上のポイントだと思ったからです。しかし当時の大道中には一言居士の先生方が大勢いて、そのコメントは問題だと言われたのでした。それは従来型のつめこみ教育につながる、もっと自然に身に付くような学習法こそが求められているのだということでした。
ゲームや活動を通じて英語を実際に練習するということはその工夫の一つで、有効な場合も多いやり方です。しかし毎日それだけやっていたのではその場限りの遊びと同じになってしまいます。何故どういう目的でそれをやっているのかということが生徒自身に理解されていなければなりません。
 教材も視聴覚やコンピューター等の情報機器も含め色々あった方が良いと思います。言語活動はあらゆる領域に関係しているので、水準ということを抜きにすればあらゆることが考えられます。学校に於いてもそういう多様な教材の開発は確かに必要なことだと思います。
しかし一つ、『「超」勉強法』」の著者に異を唱えなければならないことがあります。それは中学に於ける基礎的文法学習の必要性です。高校に於ける瑣末な「分解法」は実際には余り役に立つというようなものではありません。しかし中学程度の文法は、英語を外国語として学ぶ者にとっては必須の事項と言っても良いと思っています。ネイティブが赤ん坊から英語に浸かりながら習得していく過程と違って既に母国語を持っている外国人が外国語を学ぶ際に、文法というのは骨格を組み立てるコンパスとなるものです。中学程度の文法は、使っているうちに無意識化し、英語を使っている人には頭に存在していないように感じられてきます。著者の野口氏もきっとそういう状態なのだと思います。しかし中学時代のそういう基礎が無ければ外国人が英語を完全にマスターすることは難しいでしょう。
ただ、文法のための文法、いちいち日本語に置き換えなくては済まないような思考法、そういうものは要りません。英語を英語とし
て貪欲にどんどん暗記する。使ってみる。そのためにはあらゆる手段を使う。そういう姿勢が英語学習法にとってはとても大切です。


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 │ FORUM2-7 第78号 1月22日(水) │
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 先回、英語の学習法として「英語を英語として貪欲にどんどん暗記する。使ってみる。そのためにはあらゆる手段を使う」ということを書きました。ではその「あらゆる手段」としてどういうことがあるのか具体的に知りたいという質問があるかもしれません。そして具体的な学習法を「法則化」して提示出来れば最高なのかもしれません。しかし以前から述べているように学習者の条件・興味・目的等によってそれは様々なのです。ですから、どんな人でもどんな所でも一番ベストという目標で「法則化」するのは、かなり無理があるような気がします。
何しろ言語というものは文化のあらゆる部分に関わっているのです。人類文化総体と同じ大きさを持っているとさえ言うことが出来ます。学習者の学習する目的によって、その仕方が大きく異なってきて当然です。幼児と青少年、大人では使う言語は大きく異なってきますし、旅行者とビジネスマン、学者の間でも言語は極めて変わってくるのです。買物をするのとディベートをするのとでは全くレベルが異なります。教材も学習法も異なるのです。ただ共通しているのは、「英語を英語として貪欲にどんどん暗記する。使ってみる。そのためにはあらゆる手段を使う」ということです。
例えば中学生の場合はどうでしょうか? 私は矢張り学校の予習・復習を核にするのが良いと思います。基礎的文法事項の理解、単語・熟語を含む各種表現の練習、リーディング、リスニング……これらのマスターに努めるのです。野口氏が提唱するように教科書を丸暗記するぐらいの気持ちでやると良いでしょう。学習中、常に念頭に置くのは、生の英語です。ネイティブは決して日本人がしているようには言っていません。リズムも区切りも発音もその国のやり方に即してコピーするようにしなければ、その国の言葉にはなりません。いちいち日本語に置き換えるのではなく、使う時の感覚を頭に刻みながら外国語をそのまま身体にインプットしていくのです。
中学校で習う基礎的な知識を出来るだけ固く小さくしっかりと身体に刻み込んでおけば、それはその後の学習の大きな財産になります。
それが出来たならば、後は自分の興味と目的に合わせて教材を選んでいけばよいでしょう。以下に、その例を挙げます。これは私の個人的な体験に基づくもので、又中学生を特に対象としてはいません。
例えば日常会話に重点を置く人ならば、テレビのテキストやオーディオ、ビデオのテープ教材を基に、自分の使える口語表現を増やして行けばよいでしょう。米語を主に考えているのなら、ワダヤセイ(What do you say?)とかアイムゴナ(I'm going to)等と言う言い方を理解しておかなければなりません。書いてある文章と言っていることとが違う場合です。そういう言い方を知らないと、幾ら聞いても聞き取ることは出来ません。しかしだからと言って、映画等にも非常に多く出てくるスラングの類を一つ一つやっていく必要はないと思います。判らなくてもよいことはあるものです。しかしそんなことでは気が済まない人はスラングも米人並にやっていくことになります。
日常会話と言っても決まり文句のような短い文だけとは限らず、かなりまとまった考えを系統立てて述べなければならない事もあります。逆に、相当長い文章をこんこんと述べられてそれを聞き取らねばならないこともあります。その時の導きの糸になるのが文法です。それから単語・熟語力。それからリスニングの能力です。これは私はシャドウイングというやり方が良いと思います。外人の言った言葉を少し遅れて繰り返して追って行くのです。その際そこに日本語が入り込む余裕はありません。英語を頭から、即ち言った語順の通りに理解して行くのがコツになります。
リスニングの能力とスピーキングの能力は明らかに連動しています。そしてそれはリーディングの能力とも連動しているのです。例えば文章で書いてあるのを見てさっぱり意味の分からないものを、何回聞いた所で分かる筈がありません。よく英語を浴びる程聞けばそのうち自然と分かるようになるというようなことを聞きますが、その間に何らかの学習がなければ論理的に無理があります。留学生でも同じです。外国へ行けば自然に外国語が身に付くのではなく、その間に学習した事だけが身に付くのです。ただ、街を歩いて交通標識を見るのも、買い物をするのも学習活動ということになりますから自然に身に付くことも多くなるというだけのことです。
シャドウイングと並んでもう一つ有効なことは、今考えていることは英語でなんと言うか常に考える習慣を付けることです。外国で暮らせばそういう状態に自分が置かれるのですから、そうとんでもないことではありません。そして自分の英語が英語としてどうなのかを確かめる為にも、映画やテレビなどで言い回しや表現の仕方に気を配って、気に入った表現は出来ればそのまま覚えるようにすることです。
単語・熟語の覚え方にも色々ありますが、関連した単語は一緒に覚えるということを心がけると割合しっかり覚えられます。忘れる以上に覚えるという意気込みを持ってどんどん覚えるように心がけることです。勉強している時期には一日十単語位はめざせると思います。

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│ FORUM2-7 第79号 1月23日(木) │
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 富山育英センター塾長の片山淨見という人の書いた『平成教育維新-学習塾が問う教育のペレストロイカ』という本を読みました。これはベストセラーになったかどうかは知りませんが、図書館で見付け借りてきたのです。「今、塾は非常にイキイキとしている。教師も生徒も溌剌とし、熱のこもった授業がおこなわれている。そういう塾から見る学校は、制度的に老朽化し、硬直し、イキイキしたものを失っているいるように見える。正しいたとえかどうかわからないが、ちょうどJリーグとくらべたときのプロ野球と、どこか似ていないだろうか」(P6)と「はじめに」に書いてあります。学校で働き、しかもプロ野球ファンである私とは自ずと立場が違っている訳ですが、読んでみるとなかなか興味深い意見も随所に見られました。
本人自身も「ひと言で言うならば『教育の自由化』である」(P39)と言っていますが、彼の提案する教育改革は昔、臨教審で香山健一氏らが唱えていた案と極めて似ています。ただ、塾の教師として長年やってきた経験から、「現場の声」としてかなりホンネに迫った所を突いている所が、この本の特徴です。
業者テスト廃止、偏差値追放、人間性を評価するような内申重視……これらの文部省の施策は事態を混乱させることはあっても何も解決する事は出来ない、寧ろ「学力差も一つの個性なのだ。そのことを認めれば、学力別クラスにアレルギーを起こす理由など何もない。平等というタテマエで、学力差を、個性を隠そうとするから、成績をめぐる隠微な雰囲気ができあがる。平等というタテマエを捨てて見れば、そこには意外に清々しく、爽やかな風が吹いている。学習塾という学力別クラスの、いわば“実験場”にいる私たちは、自信と確信を持ってそれを断言できる」(P147)という立場から、飛び級・落第を含め多様な学校作りを認め、それを自由に選べる「市場原理」を導入するよう主張します。
「子供に見放されたら経営が成り立たなくなる」という死活的な問題からくる塾教師の努力によって塾の評価が高まってきたとし、次のように提案します。「教師の資質向上は、さして難しくない。先生一人ひとりが、教育とはサービス業であることをしっかり自覚しさえすればいいのだ。そこでは、生徒がお客さまである。お客さまが満足するように知恵を絞り、サービスを充実させるのが、サービス業に従事する者の務めだろう。それでは、サービス業であるという自覚を先生に持ってもらうにはどうしたらいいか。たった一つだけ方法がある。生徒と親に、先生や学校を選ぶ自由を認めることだ。子供と親御さんが、自分の教育信条に従って教師を評価し、その評価で、先生や学校を自由に選ぶのが、教師と学校を活性化する最高の方法だと思う。そのためには学校の個性化、教育の自由化、さらには公立学校の民営化など、思い切った改革が必要になる」(P72)。教職免許を廃止し、人材を広く求め、企業努力をしない学校はどんどん潰れれば良いとさえ主張します。「ソフト時代が求める才能を育てるには、今の教育体制の中では、公立より私立のほうが適している。没個性的になる公立と違い、様々な価値を自由に主張できる」(P208)とも述べています。
彼の主張を読んでいて、先ず思うのは、お金がある家には良いかもしれないけれど、無い家には大変かもしれないなあということです。それに、結果的に良いということとなった学校に入った生徒は良いかもしれないけれど、失敗だったという風に終わった学校の生徒は悲惨だろうなあ、ということ。それを見極めて入学させるのはなかなか大変だろうなあということ。又、教師がサービス業だというのは良いとしても、それが具体的に「教師とは、ある意味で人気商売なのだ」(P86)ということになると、成長中の子供を預かる学校教師として本当にそういうことでいいのかなあという思いもしてきます。
「子供を見守り、その心にまで踏み込んで教育できるのは親しかいないのだ。何といっても、親子の絆が一番強いのである。ところが、親にしかできないその役目を、親たちは学校に押しつける。生活指導に教師を奔走させ、形式的な管理教育を生み、先生と子どもから『ふれあい』を奪って、学校を味気ないもの、重苦しいものにしている真犯人なのだ。学校荒廃の原因として、いろいろなものが挙げられている。学歴社会、受験戦争、偏差値教育、管理教育……。だがその根本にあるのは、親の学校任せ体質である。親の仕事を放棄し、子どもの教育はすべて先生に任せ、学校に面倒見てもらおうとする無責任さが、今日の荒廃を招いた元凶の一つである」(P175)という氏の指摘には共感する所が大きくあります。
しかしそれなら、一日学校で学習してきた子どもをやっと家庭で受けとめられる夕食時の貴重な数時間を、またまた学校のような所に集めて学習させることが、家庭教育にとってどうなのか言っていただきたいと思ったのでした。


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 │ FORNM2-7 第80号 1月24日(金) │
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 お恥ずかしい話ですが、実は先回の号を書く前に我が家では久しぶりに大喧嘩があったのです。それは突然、下の娘が塾に通い始めたことに原因しています。これまでも何度か娘が通いたいと言い出したことはありますが、その度に私は反対してきました。しかしこの冬休み、冬期講習だけという約束でとうとう許可しました。所が冬休みが終わっても通うことにしたというのです。それを聞いて私は怒りだしたのです。
「子どもが行きたいというんだからいいでしょう!」という妻に、
 「そういう風に勝手に判断出来る訳なんだ! 俺がどういう意見を持っているのか知っていて、それを無視するのか!」と私は言います。
 「どうしてそう大袈裟に反対しなければならないの?」
 「これまで塾に行かずにちゃんとやってこられた。それで充分じゃないか?自分で出来て来れているのだからそれでいい。どうして今頃になって慌て出さなければならないのか? 塾へ行ったらもっと出来たかも知れないって考えるんだろう? それが愚かだというんだ。塾へ行かなかったから良かったという風に考えられないのか。後1ヶ月落ち着いて自分のペースが守れればそれで充分だ。今から塾に通ったってマイナス要因が色々浮かぶだけだ。」
私と妻の熾烈な喧嘩ぶりを聞いて娘が飛んできて、
 「私が授業料の半分出すから行かせてってお母さんに無理に頼んだの。お母さんに言わないで」と言います。それを聞いて私は、
 「お前が全部出せ」と言いました。お年玉で貰ったお金を全部その授業料に注ぎ込むことになりました。
娘が半べそをかきながら塾に行った後も私は腹の虫が治まらず、妻に向かって、どうしてこういうことをするのか判らんと怒りをぶつけました。
ここ1~2年、年中塾とか家庭教師から、電話やダイレクトメールで家に宣伝が飛び込んできました。その過激な商売合戦にうんざりしながら、それらを断り続け、学校を中心にした家庭での学習ということで、成果も上げ、自信も付けてきた筈なのです。それがとうとう巻き込まれてしまったという感じです。必要以上に受験意識を掻き立てられ、ペースを乱され、家庭とも疎遠になってしまう。夕食も一緒に食べずに塾通いなんて、そんな必要なんかないのだという気持ちです。
最後の最後に来てズタズタという気分でその夜はフテ寝をし、休みだった翌日は朝から口もきかずに自分の部屋に籠もり、昼からは図書館に出かけたのでした。そこで見付けた本の一つが先回の『平成教育維新-学習塾が問う教育のペレストロイカ』です。「敵を知る」ということでもありませんが、娘がそんなに行きたい塾というものがどんなことを考えているのかという思いも多少あってそれを読みました。
 その中にこんな文がありました。「受験はまさに一つのドラマ、成長のドラマであると言っても大袈裟ではない。入試のための勉強。そんなものはどこにもないのだ。たとえば山登りは、山に登るということだけに価値があるのではない。頂上を究めた達成感、それまでの苦しみ、そこに至るまでの仲間との連帯感、ときには悪天候のために頂上を目前にして引き返す決断。そうしたものにより大きな意味がある。子どもにとっての受験は、そういう山登りでもあるのだ(P103)。」「もし、子どもに受験をさせるなら、受験勉強は、この子にとって素晴らしい体験であると信じてください(P29)。」……この全面的な受験勉強肯定ぶり。
しかしこの受験戦争の中で一心不乱になっている子ども達にしてみれば、こういう気持ちが当然なんだろうなとも思います。この時期になればあらゆる事柄を受験に従属させて考えてしまうのも無理からぬことです。家族揃っての夕食よりも塾ということになってしまうのでしょう。妻もそういう子どもの気持ちと一体なだけなのです。
その夜、幸いなことに上の娘が大学の友達を連れて家に帰ってきました。みんなで一緒に焼き肉屋へ行きました。自分の塾の事で前日怒りが巻き起こったにも関わらず、下の娘の気力はまだまだ充実しているようです。冷静に自分のやるべきことを考えているようでした。
塾通いくらいでボロボロになってしまうのでは仕方がないかもしれません。私が心配して大騒ぎするまでも無く、当事者は色々考えながらやっているようだし、私も少し学校教師の意地みたいなものを持ちすぎたかもしれないとも思いました。それでも私は前日の怒りを無意味なものだとは思っていないのでした。


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│ FORUM2-7 第81号 1月29日(水) │
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 来年度及びそれ以降の自然教室を検討する準備として万座山に下見に行ってまいりました。バスで行く交通事情を調べる為と、ちょうど25日から本校の自然教室を実施中の水上高原も回って来れる為に、私のワゴン車で行きました。深く雪が積もっていることを必要条件とするスキー場は大抵辺鄙な所にありますから、辿り着くまでの道のりがどんなであるのかは、重要な調査事項です。
万座山に向かう万座ハイウェイは圧雪というやり方で道路整備をしています。必ずチェーンが必要となります。私はイタリア製のチェーンを持っていて、しかも4WDターボを搭載していますので、万全です。サウジアラビアの砂漠では普通車を高速で飛ばしていました。ですから多少の悪路は全く気になりません。しかし私達が通った時、そこは猛烈な吹雪でした。横殴りの雪の渦で視界が全く遮られてしまう瞬間が続きます。ヘッドライトを点けていますが、対向車の存在も直ぐ前に来るまで確認出来ません。カーヴもたくさんあり、いかにもスキー場へ向かう山道という雰囲気で、心がわくわくしてきました。
雪に埋もれた万座に入ると、温泉独特の硫黄の匂いと湯煙が立ちこめています。吹雪の中で人々も身をかがめ急いで動いています。
宿舎に予定されているホテルにはたくさんの木造建築の風呂があり、どれもがそれぞれ特質を持った良質の温泉になっていました。生徒達もこれらに浸かることになりますが、マイナス何十度の大自然の中での露天風呂というのも悪いものではありません。
その日は支配人さんやスキースクールの校長さんにじっくり話を伺いました。万座が本格的に修学旅行や自然教室のような学生の団体を受け入れるようになったのは、今年からと言うことで、これまでは冬シーズン普通に開けているだけで採算が取れた程だということです。一時期私も色々なスキースクールで教わったことがありますが、指導員さんの親切な教え方が印象に残っています。ここでも朝・昼・晩と一日三回打ち合わせをやって指導体制を作るとのことです。
吹雪の後はたいていピーカン(快晴)ということらしいのですが、翌日も吹雪いていました。しかし上田先生と一緒に全てのゲレンデを回りました。
万座スキー場の特色は雪のついた樹林の風景の美しいことだと思います。枝だけになっている木にはクリスマスのデコレーションのように白く雪が付着していますし、杉や樅等の常緑樹は樹氷となって凍り付いています。風で舞い上がる粉雪の間に静かに白い森が存在しているのです。
生徒達の主な講習場となる朝日山ゲレンデと、プリンスホテルの近くの万座山ゲレンデは、熊四郎コースという林間コースで結ばれています。これは一種のツアーコースで、山深い大自然の雰囲気を味わうことが出来ます。初めてスキーをはく者にはちょっと無理かと思いますが、もともと山には整備されたゲレンデではなくて、このようななんでもない山の道しかない訳です。そういう所を登ったり下ったりして通って行くのもスキーの醍醐味の一つです。
朝日山ゲレンデは人気の無い静かな山間のスキー場です。矢張り森の景色が綺麗で味わいがあります。午後になってそこを滑りましたが、その頃には私も上田先生も寒さにすっかり凍ってしまっていました。朝からずっと吹雪だったのです。髭もまるで樹氷のように凍りついています。ゴーグルとスキー服がこういう時程ありがたいと思うことはありません。リフトに乗りながら、立てた襟に首を埋め、ゴーグルで風を切りながら、じっと身を固くして寒さに耐えるのです。昔はこういう時に、生きている自分自身の体温を感じ、斜面をばりばり滑走することを考えながら、自然と対決するガッツを燃やしたものです。しかし今回は自然教室の下見です。早々に引き上げることにしました。
横浜へ帰る途中、関越自動車道を逆に下って水上高原へ寄りました。水上インターからのアクセスも楽でした。大道の生徒達が使っている藤原スキー場は宿舎のすぐ前に広がっていました。彼らにちょうど良い、なだらかな斜面です。各班に分かれてゲレンデに散らばっています。ほとんど大道の貸し切り状態です。ホテルにある本部から生徒達のすべての動きが見れるのも良い点の一つでした。


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 │ FORUM2-7 第82号 1月30日(木) │
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 1月はFORUMを毎日出して参りました。冬休みに本を読みその感想を書いておいたので、それが出来たのです。しかしその分は78号で終了しました。これからは毎日出ることにはならないと思いますのでご承知置きください。
最近、『「超」勉強法』の続編が出ていることを知り、早速買って読んでみました。「実践編」という名が付いています。内容は第一章が、勉強社会を作る、第二章が英語の「超」勉強法・実践編、第三章が日本語の「超」勉強法・実践編、第四章がパソコンを活用する「超」勉強法、となっています。 76号でも紹介しましたように著者は「学歴社会を脱して、勉強社会を作ろう」と提唱しています。そして「勉強社会では、受験勉強と社会人の勉強の間に大きな差はなくなる。本書がこれらを区別せず、一般的に『勉強法』としているのは、この理由による」(P20)と述べています。「学習する方法は、その人の時間的社会的場所的条件によって多様に存在する」という私の主張と何かしらニュアンスが異なっています。そういう事を少し感じつつ第一章を終え、第二章に進みます。
第二章では、先ず「口語英語の練習は、聞くことに集中する。聞ければ、自然に話せるようになる(P60)」として幾つか具体的な方法を紹介しています。78号で述べたシャドウイング等の方法についても書いてありました。そして更に「インターネットの時代は英語の時代」であるとして、これからは「書く英語」の重要性が高まってきたと指摘します。そして添削や辞書等のパソコンソフトの使い方等を説明します。
第四章ではパソコンを使うことによって利用できる情報の範囲がいかに拡大したかを、具体的な例を挙げて紹介します。そして「学校へのパソコンやネットワークの導入は、今後急速に進むだろう。本書で述べた内容は、明日の学校教育で不可欠な知識になるはずである。パソコンやネットワークは、驚異的なスピードで発展している。……ところが、この分野での日本の現状は、楽観を許さない。英語文化圏との格差が拡大しているのである。遅れているのは、パソコンの配備状況や通信回線の状況だけではない。パソコンを使って得られる知識や情報の量と質とが、桁違いなのである。それらの整備は焦眉の課題だろう」(P236)と主張します。
こうした彼の観測は概ね当たっているように思います。日本人が英語を使うのは主に国際的な通信手段として使うのでしょうから、それが情報手段の発展と不可分に結びついていることは当然です。ですから、英語学習に関しては本当に実践的にイイ線をついていると思いました。
ただ私が首をひねったのは、今抜かした第三章の日本語の勉強法についてなのでした。著者はそれを徹底的に実用文に絞り、150字という字数とか最初に全体の概略を述べる事だとかの重要性を述べます。電子メールやファックスの時代には、そういう知識は必要不可欠だからです。そのこと自体の有用性は確かに認めますが、私は日本語の勉強としてそれだけでは極めて不十分だと思います。
私達は言葉を通して様々なことを学びます。母国語は考える手段であり、人間の精神活動そのものです。それはビジネスや受験等の情報伝達だけでなく、人間の感じ方、思索の仕方をも表していきます。私達が文章を読むとき、筆者の感性や情念、思想のあり方やきらめきに心を動かされ、自分のそれと向かい合わせるのです。そして多くの場合、心動かされるのは筆者の特別な、ありふれたものでも良いのですが、筆者にとって特別な意味を持つ体験とか生き様に関連した事柄に接した時です。言葉によって人間は自分の生き方を確かめようとするのです。
そのことが日本語を勉強する重要な関心事になっている者も数多く存在するのです。そしてそれは受験勉強とは全く異質の勉強であると思います。図書館で静かに読書しながら、残り少ない人生についてあれこれ思索する老人を、野口教授はどう評価するのでしょうか。「勉強社会」の勉強とは関係無い勉強だと言って切って捨てるのでしょうか。そんなことは無いと私は信じたいと思います。私はそれこそが多分もっとも人間の真実に近い勉強なのだと思うのです。
機械も学問も人間が作ったものです。人間には人間の生き方が何かあるのだと思います。それは極めて学習ということと結びついたものであることが予感させられます。新しい電化製品のマニュアルを読み解くだけが学習ではありません。人間にとって学習とは本当に奥が深く、しかも生活や生き方に密着したものなのだと思います。
勉強を語る時、その辺の所が全く欠落しているということは、何か重大な点を見落としているような印象を受けます。勉強社会とは何か、勉強は人にどういう意味を持っているのかという点で、どこか違っているように思えてしまうのです。



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