01. 乾為天 5爻 日清戦争占話考 10 甲申事変4 清国との談判交渉
01. 乾為天 5爻 日清戦争占話考 10 甲申事変4 清国との談判交渉 「新型コロナウィルス巣ごもり企画」の続きです。 さて、前回の続きであり、甲申事変の後始末についての占例となります。 【背景】前回ご紹介したとおり、甲申事変の後始末のための交渉の日本側の大使には伊藤博文が任命されました。清国側の全権大使は全北洋通商大臣の李鴻章です。 日本と清国とのこの交渉がどのようになるかは、当時の国内世論の超注目ニュースでした。そして、前回ご説明のとおり、日本国内では「清国討つべし」の強硬で主戦的な国民世論が沸騰していました。しかし、当時の日本が清国と戦をするということは国力の差から見て、到底考えられることではありませんでした。 高島嘉右衛門の親友、伊藤博文も清国との戦争は極力避けるべきという考えであることを高島は知っていました。 しかし、かといって、もし伊藤博文が清国に妥協した交渉をすれば、日本国内からすさまじい非難を浴びることは容易に予想されることでした。 そこで、彼は密かに一人この談判の成否を占いました。結果が悪ければ、自分の心の内にとどめる予定だったのでしょう。 【結果】乾為天(けんいてん) 5爻 ―――――― 〇―――――――――――― これ以上ありえない良い結果です。 【高島の判断】 まず、前提知識を説明します。 ■前提知識の説明 乾為天と陰陽について この卦を乾為天(けんいてん)と呼びますすべて爻が陽(―――)で構成されています。その中には一つの陰(― ―)もありません(純陽の卦)。[i]。 古代では、世界は、二つの要素、陽(プラス)と陰(マイナス)で成り立つものと考えます(陰陽二元論)。陽の究極のもの、すべてが陽のものを天と捉えました。逆に、陰の究極のもの、すべてが陰のものを地と捉えました[ii]。また、世界の始まりもこの陰陽二元論から考えました。すなわち、世界は混沌(カオス)からはじまり、それが純陽である「天」と純陰である「地」に分かれ、動き出したと。そして、歴史はまず神々の歴史から始まるのでした[iii][iv] 天も地も究極のもの、理想であり、現実のものではありません。現実世界は常に不純物が含まれます。あたかも100%の善人、100%の悪人がいないように。 乾為天が出たら、この存在する、理念的「天」のメッセージを、読み取る必要があります。天の意志、天の理念です。天の意志に従った生き方には二つのパターンがあります。一つは、天の意志を実現するように主体的に努力をする生き方。もう一つは、すべてを天にゆだね成り行き任せとする生き方[v]。 乾為天における天の意志に従った生き方とは、この前者の天の意志を実現するように主体的に努力をする生き方を言います。[vi]。 以上を前提に高島嘉右衛門の判断を説明します ■卦の判断高島嘉右衛門は、この乾為天から、易の神様が、伊藤博文に天の意志を実現するように精一杯に努力しなければならないとのメッセージを与えたと判断しました。象伝には「天行は健なり。君子以て自ら彊めて息まず。」とあります。これは、太陽が運行して少しの間の休むことがないのと同じように、君子は休み事無く努力しなければならない、という意味です。 ここから高島は、交渉は先手必勝、先に進む方が勝つと判断しました。今回、大使を日本から清国へ派遣する。これは、日本が先手を打っているということである。このように日本から進んで談判を開くのは乾の精神、「天の意志を実現するように主体的に努力をする生き方」を実行するものであるから、勝算は日本にある。勇敢に進んで談判すれば万事良いことが得られると高島は判断しました。 ■爻の判断爻は、5爻でした。 (1)爻辞易経には「飛龍天にあり。大人を見るに利あり」とあります。飛龍、つまり龍が時と処を得て思うがままに力を発揮し飛んでいます。大人、つまり徳も位も立派な人と会えばいい結果となるよ、が訳です。 時と処を得て思うがまま力を発揮するのは伊藤博文です。その伊藤博文が、大人(李鴻章)と会うのがいいよ、というのが爻辞の当てはめとなります。 (2)応爻による分析一般に易の卦は6つの棒(爻)により構成されます。この六つの棒には、お互いにパートナーが居りまして、下から一番目と四番目の棒(爻)、二番目と五番目、三番目と六番目はお互いに相応関係があり、その関係によって事の良しあしを判断します。 易の世界では陰と陽が結びつくことがよしとされ(「応」といいます)、陽同士、陰同士はいまいちとされます(不応)ただし、これには例外があって、乾(全部陽)の二爻と5爻はお互いに陽であるが、応じる(よい)とされています[vii]。 5爻のパートナーは2爻。5爻は伊藤博文で2爻は李鴻章。これはお互いに応じうる関係です。高島は、それを次のように説明します。 5爻(伊藤博文)と2爻(李鴻章)は、共に陽爻である。本来は陽と陽ではなく、陰と陽が応じるものであるが、今回は、乾為天の陽爻同志だから、応じると判断される。これは、いずれも国家を思う情は同じであって応じないということはないという易のメッセージである。我が国の大人伊藤博文と清国の大人李鴻章とが会見して談判を開くのであるから、きっと遠い将来を配慮し目先の小事などを顧みることないであろうと判断しました。 (3)坤為地からの分析そして、遠い将来を配慮し目先の小事などを顧みることない、ということを坤為地の5爻をヒントに、さらに敷衍します[viii]。 つまり、乾の裏卦(陰陽をすべてひっくり返した卦)の5爻は「黄装元吉」とあります。直訳すると、「黄色いはかま。大いに吉」となりますが、この黄色いはかまを、黄色人種とかけて解釈しました。つまり、伊藤博文、李鴻章ともに、各国を代表して交渉に臨むが、それは目先に小事である。内心にはともに黄色人種としてアジアの未来を考え、欧米に対する危機感を共有するので、お互いに助け合いアジアの独立の観点から交渉は上手くいくと。 【その後の展開】1.高島嘉右衛門、鑑定書を伊藤博文に渡す「これはいい占い結果がでた!」、高島嘉右衛門は小躍りして喜びます。「さっそく伊藤博文に知らせ励ましてやらなければならない!」明治18年(1885年)2月28日、伊藤博文は横浜港から清国へ向かうということは新聞にも書かれており高島嘉右衛門も知っていました。そこで、彼は、占い結果を鑑定書にしたため、伊藤博文に渡そうと、横浜港まで見送りに行きましたが、見送り人は数百人も居て、結局渡すことができませんでした。 がっくりして帰宅し数日過ごしたところ、高島嘉右衛門の知り合いの横浜弁天通りの商人 立川磯兵衛が、天津に渡航する予定があると聞きました。そこで、彼に伊藤博文に自分の書いた鑑定書を渡してくれと依頼したところ、立川磯兵衛は、「まったく、この時期に物好きな」と思いつつも、高島の熱意に押され、渋々、渡すことを引き受けてくれました。立川は、渡航後、天津にて、伊藤博文に随行していた書記官、伊東巳代治[ix]に頼みました。伊東巳代治も「まったく」と思いつつも、伊藤博文がときどき高島嘉右衛門の占いを頼っていることは知っていたので、渋々引き受け、伊藤博文に、高島の鑑定書を渡したのでありました。 2.伊藤博文の発奮伊藤博文が、高島嘉右衛門の鑑定書を受け取ったとき、李鴻章との交渉は、まさに暗礁に乗り上げた時でした。「もうダメだ。」と伊藤博文は荷物をまとめて帰国しようとしていました。 この交渉について、ここまでの清国 李鴻章と伊藤博文との交渉経緯を遡りながらご紹介します。 (1)清国と日本との交渉の目的(前提知識)この交渉の目的は甲申事変の後始末にありました。具体的には、甲申政変の事後処理と、この事変により生じた日清両国の緊張状態の解消でした。甲申事変の事後処理は、朝鮮国との間では漢城条約により合意されていましたが、日本国と清国は武力衝突をしているため、清国との交渉も必要でした。しかし、日清の交渉が、武力衝突が清国軍隊の勝利で終わっていたため、日本は交渉上非常に不利な立場でした。 交渉の課題は、なおも朝鮮半島で睨み合う日清両軍隊を撤兵させることと、甲申政変中に在留日本人が清国軍によって加害されたこと(日本商民殺傷事件)の責任の追及でした。特に、この日本商民殺傷事件については、国内マスコミも注目しており、交渉担当者である伊藤博文には安易な妥協は許されませんでした。 しかし、日本は武力衝突で負けた立場です。そのような中で、清国に日本商民殺傷事件の責任を認めさせ、さらに日清両国軍の同時撤兵を主張するのは難しい問題であり、交渉決裂の可能性がかなり高いのではないかと、交渉前から日本政府首脳間では予測されていました。 (2)日本と清国との交渉(高島嘉右衛門の鑑定書を受け取るまで) 横浜を発った伊藤博文一行政府交渉団は、約1か月後の3月21日に北京入りししました。清国側は交渉の席を天津に設け、交渉が日本国と清国との交渉が開始されました。 まず、日本側は、朝鮮国王要請によって王宮内に詰めていた竹添進一郎公使と日本公使館護衛隊が袁世凱率いる清国軍隊の攻撃に晒されたことはまったくの遺憾であると主張し、さらに漢城市街で清国軍人によって在留日本人が多数殺害・略奪されたとして清国を厳しく非難しました。そのうえで、朝鮮からの日清両国の即時撤兵と、日本商民殺傷事件に関係する清国軍指揮官の処罰を求めました。 これに対して清国側は、まず日本は朝鮮国のクーデタに協力した疑いがあるとして、軍を出動させた竹添公使の行動を強く非難しました。そのうえで、漢城における日本商民殺傷事件は、暴徒化した朝鮮の軍民によって引き起こされたものであり、清国軍の関知しないところであると関与を否定しました。 それをスタート地点に両国の交渉が始まりますが、両国の朝鮮半島の撤兵問題に関しては、アジアの平和の早期回復の観点から、早い時期に合意を得ることができました。しかし、撤兵後、どのような場合に半島への両国の軍隊を派遣するかについてが食い違いが生じ、議論が平行線をたどったままでありました。 これ以上続けても妥結の見込みない、と伊藤博文は交渉継続を諦め、まさに荷物をまとめ始めたときに、高島嘉右衛門の鑑定書が届いたのでありました。 (2)伊藤博文の発奮鑑定書を受け取った伊藤博文はこれを読み大いに発奮します。鑑定書の隅から隅まで舐めるように読み、易経の言葉を思い出し、これまでの交渉を振り返ります。たしかに、ここで日清両国の交渉が決裂し、アジアで日清朝鮮がいがみ合っていたら、もっとも得をするのは北方の国ロシアのはずでした。そして、このロシアの脅威は、1881年にロシアと国境紛争をおこなった清国も重々承知しているはずです。(→「25.无妄(むもう) 2爻 日清戦争占話考 2 東トルキスタン イリ地方をめぐる国境紛争」参照)清国も日本もお互いに喧嘩している場合ではなく、目先の小事に引きずられずに、アジアの平和のためにともに協力し合うことべきであり、これが天意と、伊藤博文も感じました。 たしかに、この交渉は武力衝突に負けた日本には分がない。しかも、国内では、日本がクーデターに関与していたことを国内では隠しているため、国内世論も強行であり、交渉はますます進めづらい。 しかし、だからといって、「本当に一身を擲って、天下国家のために交渉力を尽くしたと言えるだろうか?」と伊藤博文は、この交渉を振り返り自問自答したのでした。 もっともっと苦しい外交交渉が明治期の日本にはありました。1871年 台湾に漂流した宮古島54名殺害事件の後始末に関する清国と日本との交渉です。そのとき、政府責任者 大久保利通は、大国清国を相手に一歩も引かず交渉を治めました。 「今こそ踏ん張るべきだ。」伊藤博文は気持ちを持ち直し、李鴻章に、交渉の再開を打診します。 (3)交渉の再開腹をくくった伊藤博文は、再度、両国の朝鮮半島の撤兵問題を議論します。伊藤と李鴻章のあいだの交渉は6回におよびました。伊藤は第三国の侵攻など特別な場合を除いて、日清ともに出兵するべきではないと主張したのに対し、李は朝鮮が軍の派遣を要請すれば清国は宗主国として軍を派遣しないわけにはいかないと反論し、壬午軍乱や甲申政変といった内乱であっても出兵はありえると主張しました。しかし、伊藤も一歩も譲らず、結局、両国の永久撤兵案は退けられたものの、出兵に関する相互通知を取り決めることで合意に達しました。また、同時に、日本商民殺傷事件に関する関係者処罰も取り交わすことに合意に達します。結果1885年4月、なんとか日本側の面目もたもつ形の条約(天津条約)が締結されるに至りました[x]。この条約により、日清両国は朝鮮半島から完全に撤兵することとなるとともに、以後出兵する時は相互に通知すること(「行文知照」)が義務付けられることとなりました。 なお、この通知(「行文知照」)の意味のとらえ方は、日清両国で違いがあり、これが日清戦争の直前に顕在化します。 ※なお、このブログに出てくる高島嘉右衛門は、易占の名人であり横浜の実業家でありますが、彼の著書である「高島易断」と、似たような名前の団体とは関係がありません。甥にあたる高島徳右衛門氏が証明しております。「周易学占(三)」老園卓昌より 【参考文献】訳注高島嘉右衛門占例集 鴨書店 竹中利貞高島易断(仁、義、礼、智、信) 八幡書房朝日選書「易」(本田済)易学大講座1~8 紀元書房 加藤大岳日清戦争 大谷正著 中公文書いっきに学びなおす日本史(下) 東洋経済 安達達郎詳説世界史研究 木下康彦他 山川出版社易経 明治書院 今井宇三郎他易占の要諦 武隈天命周易学占(三)老園卓昌古事記 角川ソフィア文庫 中村啓信聖書 日本聖書教会 [i] これに対して、すべてが陰の卦(純陽の卦)を坤為地(こんいち)と呼びます。[ii]易経の解説書 「繋辞伝 上」は、次のようにはじまりす。「天は尊く地は卑くして、乾坤定まる。」(天は高くあって上に在って万物を多い、地は低くして下にあって万物を乗せている。この天地の定理に従って、純陽の卦である乾と純陰の卦である坤との二卦が定立された)[iii]古代日本の易の大家である太安万侶が書いた古事記の序文は次のように始まります「それ混元既に凝りしかども、氣象いまだ敦《あつ》からざりしとき、名も無く爲《わざ》も無く、誰かその形を知らむ。然《しか》ありて乾と坤と初めて分れて、參神造化の首《はじめ》と作《な》り、陰と陽とここに開けて、二靈群品の祖となりたまひき」(宇宙のはじまりの混沌がやっと固まってきた。気も形のくまどりも現れず、名もなく、作用もなく、したがって、誰もその形を知らない。しかし、混沌は、二つに初めて分かれて天と地になった。その天に三人の神が天神の初めとなり、陰と陽も初めて分かれその地に男女二神が万物の祖先とおなりとなった)[iv] 西洋の古典、旧約聖書 創世記は次のように始まります。「初めに、神は天地を創造された」[v] すべてを天にゆだね成り行き任せとする卦は、以前、ご紹介しました天雷むもうです。[vi] そこから、君主たる道という意味も「乾為天」が指し示すと言われます。[vii] 本田済 「易」乾2爻の解説。程氏。[viii] 一般に、乾為天が出たときは、坤為地を加味して解釈すると判りやすいといわれます(「易占の要諦」武隈天命)[ix]伊藤巳代治は、伊藤博文の側近。英語に堪能で伊藤博文が工部卿の時から仕えていた。明治17年(1884年)3月からは、憲法起草のため、宮中に極秘に設けられた制度取調所に出仕し、議長である伊藤博文の下で、井上毅、金子堅太郎とともに、憲法の起草にあたっていた。[x]清国が譲歩した背景には、フランスとの清仏戦争がなおも続いていたことや、交渉が長引くことによって日本がフランスに接近することを防ぎたいイギリス側からの働きかけがあったといわれます。