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カテゴリ:潮流
『文学界』の最終頁に「鳥の眼・虫の眼」というコラムがあります。時事的な文学の話題を相馬悠々は切り取っているものですが,今月は「おれおれ小説」と題して,このところ一人称小説の氾濫を取り上げています。
言われてみれば,今年の野間文芸賞の佐伯一麦氏の「ノルゲ Norge」は“おれ”だし,同新人賞の西村賢太氏の「暗渠の宿」は“私”,鹿島田真希氏の「ピカルディーの三度」が“おれ”。 芥川賞も130回の金原ひとみ氏,綿矢りさ氏のダブル受賞時に,候補5編中4編が一人称と指摘されて以来,131回の「介護入門」は“俺”,132回「グランドフィナーレ」は“わたし”,133回「土の中の子供」が“私”,134回「沖で待つ」も“私”,136回の「ひとり日和」は“私”,前回137回「アサッテの人」が“私”という具合。 135回の「八月の路上に捨てる」だけが三人称である。 八月の路上に捨てる もちろん,作品の評価は主人公の人称で決まらない。また,一人称だから私小説とは言えず,三人称の私小説もあります。が,小説は社会を映し出す。 虚偽に満ちた社会から身を隔絶させて立て籠もるところとして“私”を選んでいるのかもしれません。 つぶやきに似たケータイ小説が異常に共感を広げているのと,どこか通底しています。しかし,それでよいか・荒野を目指せ,はもはや通用しないのでしょうか。 ↑ 上記の作品のうちひとつでも読んだ,という方,「応援クリック」をお願いします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008年01月09日 16時55分08秒
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