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2007.08.05
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カテゴリ:生活

昨日書いた母の療養日記ですが、

教師として立派だった反面、家庭はボロボロに・・・

母が亡くなった今でも、家族はまとまりがなくバラバラです。

私の姉について書いたページがありました。恥ずかしい話ですが、

お暇だったら読んでみてくださいスマイル

ローズライン.gif

子育てって難しい~ 私の支えがもろくも崩れた時

長女が変わったのは高1の時。

父親と同じ学校へ通い始めプレッシャーがあったという。

ほんとに長女の心がわからなかった。

重くのしかかっているプレッシャーに気付かなかった。


私の生きがい、誇り、それは仲間と共に教師としてすばらしい実践を行い、

とかく学級だけになりがちな所を、クラブ活動も精一杯し、わが子も3人育て

主婦として母として、そしてもちろん教師として一人何役もこなすこと・・・

コマネズミのように時間に追われながらも、精一杯の自分の力を発揮する事だった。

今から考えると欲張りで到底無理なことだったが、忙しくてたまらないけど

事実、充実していた。


転勤して主人との接点を持ちたい事もあって、同じクラブの顧問となった。

練習、試合のために土・日も学校へ出ることが多くなっていった。

当然、我が子との接点はすくなくなっていき、子供との時間が持てなくなっていった。

超過密なスケジュールの父母の間で、我が子は居場所を失っていた。
(父の帰宅は週に1度くらい)

長女が帰宅してくる度、髪の毛がだんだん赤みがかってくる。

問い詰めてもドライヤーのかけすぎだと答える。

そのうち知らない友達が増えて、帰宅が遅くなり長電話、外泊も始まった。

お決まりのコースだった。

それでも我が子を信じていた。話せばなんとかなる、と必死で話をした。

しかし、時すでに遅しだった。

同じ学校に勤めている主人も、ただ事ではない我が子の変化を

なんとかしようと必死だった。

高校に入るまでは、私にほとんど子育てをまかせていた。

これからは、自分が見ると宣言して同じ高校に入れたのである。

それまであまり接していなかったのに一生懸命話していた。

そのうちますますひどくなり、手も出し大声もだした。

しかし・・・時間が経つにつれて長女の変化は主人の心を暗くして悩ませていった。

同じ学校で生活指導をする主人と、赤毛になり荒れてエスケープ、

反抗、無断欠席をする長女と・・・・・

同じ職場の私には主人の苦しみが良くわかった。

そのうち主人は長女を退学させ手を引いた。

そうしなければ自分の精神状態を維持できなかったのだ。

そうなると、長女の対応は私一人となって、ずっと追いかけついてまわった。

けれど長女も実は苦しかったのだ。純粋で素直で、それでいてもろく弱い長女だけに。


それからというもの、仕事にはなかなか打ち込めなかった。

それでも学級やクラブは順調にいき、一方で充実した時間が持てたので

落ち込まず、ギリギリのところで自分らしさを維持できた。

もう自分を守る事に精一杯の主人には頼れなかった。


そして色々あったが、17歳で嫁いでいった。

2女をもうけ、20歳で離婚。

今も苦難の道を歩み、不安定な長女である。




「これが、人生よ。」と、母が言う。

苦しい事、悲しい事、辛い事ばかりで 楽しい事はあまりない。

けれど、その楽しい事が とても 嬉しくて 生きてゆける。

人生とは こんなもんよ・・・


・・・・何か どし~んと 響いた。
ローズライン.gif

姉が高校1年生の時、私は中学1年生でした。

母が泣き叫びながら姉の首を絞めようとしたこともありました。

「あんたを殺して母さんも死ぬ」って。泣きながら止めるのは私の役目。

妹は小さくて意味が分からず泣いてました。姉は裸足のまま飛び出て行きました。

苦しかったですね~。誰かがいつも泣いてたような・・・

母は学校に居る時が1番楽しそうでした。

私たち三人姉妹は、学校から近所のお店に帰って母が迎えにくるのを待ってました。

迎えに来て、そのままお婆ちゃんちへ(泊まり)連れて行かれることも多々あり、

家出した子を探しに行ったり、家にはほとんどいなかったですね雫

家に居ると、いつも生徒や親と電話です、それが終わると横になって寝てました雫

話をする暇もなく、後片付けは私の仕事でした。(小学生の時)

姉の事だけ書いてありましたが、私は中学2年から姉以上に手に負えない

状態になりました。本当にひどかったです・・・

同じ中学で母の学校にも情報は入り、生徒に「先生の子供、番長でしょ?

なんて(番長ではありません雫)聞かれたり。肩身が狭かったと思います。

私の中学はパトカーがすぐに飛んでくるし、新聞には載るしで最悪の状態に・・・

まぁ私の事はこの辺でいいとして雫

母が胃がんになったのは、私が16歳の時です。

親に頼るのが嫌で、私は夜間の高校へ働きながら行ってました。

洋服も外食も交通費も全部自分のお金で・・・可愛げのない子です雫

母が入院するようになってからは、バイトを辞め家事と母の世話に追われました。

それでもうちの家族はバラバラでした。

母が長くないと聞かされて、パパが挨拶に行きました。

「卒業したら結婚します」・・・やせ細った母は嬉しそうに笑ってました。

余命2か月を告げられた時、母が察知してはいけないと思って頻繁に行かないように

絶対にばれないように病室では泣きませんでした。

けど、逆に母が「もう帰るん?と涙ぐんで私を引きとめた事を、

今でもはっきり覚えています。病室を出て大泣きしながら帰りました。

それから1ヵ月も経たないうちに母はなくなりました。

学校へ連絡が入り、病院まで必死に走りました。あまり思い出したくないけど・・・。

今、母が生きてたら子供たちを見せたいし、甘えられなかった分甘えたいですね・・・

そして言いたい事も。子供を信じるのは大事だけど、

触れる事、抱き締めることが大事だって事を言いたいです。

3人姉妹、みんな精神面で弱い部分を持ち、不安になると吐き気がする・・・

これは未だに治らない症状です。

我が子には絶対同じ思いはさせないと、私はたくさん抱きしめて

愛情表現をしてきました。もちろんこれからも。

抱きしめてもらった記憶がなく、そのせいか熱をよく出し、

その時母がおでこを触ってくれた時が1番嬉しかったし、安心できました。

子育てって本当に難しいけど、愛情をしっかり伝えてあげて欲しいです。

言葉はそんなに必要ないのかもしれませんね。

母は教師として充実した人生でしたが、私は家族に幸せを感じてますスマイル

荒れてた時から私をずっと見てきたパパですが、1番の理解者で、

私のパートナーで、親友で、支えてくれる大切な人です。

こんな私をずっと見守ってきてくれました。私の生きがいは今の家族ですスマイル

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Last updated  2007.08.06 00:16:27
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