品田知美の空中庭園

2008/06/12(木)00:54

秋葉原無差別殺人犯の孤独

ニュース(20)

 あれ、人と話しただろうか、ときょう1日を振り返ってがく然とした。郵便局と銀行の窓口とコンビニのレジでしか会話してない。同居人が出張に出たらすぐこんな1日になるのだ。いままでずっと家族が多く、地域で歩けばすぐ知りあいに会うほどの生活で、孤独になりたいと考えていたくらいの日々は、ある日簡単に孤独な日常に反転する。  そんな日に、秋葉原の無差別殺人犯が数日前から書き込んでいた文章をYou tubeで読んでいたら悲しくなってしまった。孤独が痛いほど伝わってきたのだ。  三島-名古屋-福井-名古屋-三島-東京-三島-東京  彼の通過地点は、どこも私にとって馴染みの深い場所である。  福井までナイフを買いにいって「店員さん、いい人だった」と書いたあと、「人と話すのっていいね」と書いている。そして「タクシーのおっちゃんともお話しした」と。そんなさりげない人との会話がうれしく感じられる瞬間は誰しもある。でも、それだけでは彼の孤独は癒されなかった。  しかも彼は「ナウシカに間に合うかしら」と書いているではないか。そう、6月6日は金曜ロードショーで風の谷のナウシカをやっていた。どれほど多くの人が好きな映画だろう。私だって家族で何回見たことか。これだけ普通の人と同じような感性を持ちながらあれほどの犯行に至ってしまうものなのか。だからこの事件はかなり恐ろしい。  2004年労働者派遣法が改正(悪)され、工場労働への派遣が解禁された。モノを作るためのヒトのジャストインタイムが完成したのだ。ここ名古屋の地元雑誌にのっている求人も工場労働派遣だらけである。しかもみな宿舎つき。事務の「ハケン」と違って工場は不便な場所にあることが多いから宿舎は必須なのだろう。工場から工場へと、その地域に馴染む暇などないうちに日本を移動して歩く派遣労働者。都会のオフィスで事務をする「ハケン」ライフがいまは牧歌的にみえるほど、苛烈な労働のしかたが出現している。物を扱う仕事はそれだけで寡黙なものだ。その方が気楽でいいという人もあるだろう。安定した雇用関係ならば職場には少なくとも仲間はできる。しかし転々とする環境で友人を新たに作り、維持しつづけるためには相当な努力が必要だ。  そして、彼にも生まれ育った場所に家族はいたのに、今は「いなかった」のだろう。両親は25歳で家を離れて自活している子どものために、どうしてこんなにすぐ人前に出て謝罪しなくてはならなかったのか。親業とはつくづく終わりがなく辛い商売である。お決まりのように「大人の前ではいい子だった」という話が出てくる。「いい子」じゃなかったらそれはそれで辛い目に合わされるのもこの社会である。じゃあ、どうすればいいんだろうね、全く。親も子も必死なのだ。もし、よい職についている父親が彼の人生を認めることができていたら、彼は最後の一線を超えなくてすんだかもしれない。  この世界から「はじかれ」ないように。実際彼はぎりぎりで踏みとどまっていたつもりのところを、まさに「はじかれ」そうな不安にかられた。こんなに事前に書き込みをしてサインを出していたのに、誰も止めることができなかった。彼はずっと頼ってきたバーチャル世界の中にも、結局底なしの孤独しかないことに気づいてしまったのだろう。  生身の人と人が気楽に会話をしてつながっていくための社会的なしかけがほとんどない日本社会で、それに変わる役目を果たしてきた「職場」という濃密なコミュニティをなくしてしまったツケが、これからそこかしこで吹き出してくるような予感がして震えている。  

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