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カテゴリ:幕末の歴史 清河八郎と庄内藩
1863年(文久3年)横浜異人館焼討計画を延期した渋沢たちはある種の熱狂から覚めた。我に返り、自分たちが危険な立場にあることに気づいた。渋沢たち、血洗島グループ(慷慨組)は離散して逃げた、そして郷里を出奔した。渋沢が24歳の時で、従兄(いとこ)の渋沢喜作が同行した。
「そのころ、幕府に"八州取締り"という今でいう探偵吏というようなものがあって、それが少しでも変な風評を聞くとすぐに探索をしてたちまち召し捕ることになっていた。大橋訥庵(とつあん/坂下門外の変)の計画者)を縛したときにも、かかわりのある者(長七郎など)を田舎まで手配して探偵をした。(今回の件で)自分たちも、すでに捕縛されようとした危険の場合もあった・・・自分と喜作とはこれから京都へ行くことに定めて近隣や親類へは伊勢神宮かたがた京都見物に行くと吹聴して、故郷を出立した。(雨夜譚 余聞)」 "八州取締り"は八郎の虎尾の会事件や逃亡の話にも出てくる。この前後のいきさつは八郎の時と数多く様子が似ているところがあり興味深い。この郷里出奔から一橋家の家来になるまでの渋沢の行動には水戸藩との不自然な経緯がいくつかみられ、何か敢えて述べられていないようにも思える。 渋沢栄一と従兄の喜作が郷里を離れたのは11月8日、江戸に向かうのに水戸を経由した。京都に向けて江戸を立ったのが11月14日。渋沢はこれを「関東八州(取締り)の尾行をまくためだった」とするのだが、鹿島茂氏(著書「渋沢栄一」)はこの水戸に立ち寄った理由を「尾高惇忠の代理として水戸の尊王攘夷派と連絡を取る必要になったからに違いない」と考える。 水戸での行動は不明だがとにかく江戸で一橋家の関係者と接触した。慶喜は水戸藩徳川斉昭の子なのでこの頃には水戸藩の関係者とのつながりがあったことは間違いない。一橋家との関係のきっかけについては "先生が江戸滞在の間に、偶然にも一橋家との関係を生ずるに至れり。(渋沢栄一伝稿本)"と、偶然なこととしているがそれ以前から何らかの関係があったことを述べている。一橋家の川村恵十郎と出会ったのは江戸に遊学していた時だったのだろうか、川村と身の上の相談できるほどの緊密な関係ができていたようだ。さらに川村から平岡円四郎(一橋家用人/最も権力のあった人)を紹介され懇意にもなっていた。この辺の水戸藩だけでなく他藩の尊王派とのネットワークの詳細は伏せられているようだ。 江戸で平岡を訪ねると本人は京都にいて不在だったが、その奥さんが一橋家家来になることを承諾する平岡の伝言を受けていたので、一橋家の家来として京都に向かう。後になってみればこのことが渋沢の命をつなぎ、将来への道を開かせた。1864年(元治元年)京都に着いたのは11月25日だった。そして、京都では慷慨(こうがい/正義にはずれた事などを、激しくいきどおり嘆くこと)家と会ったり、周辺を旅行するなどをして過ごした。
なんとなく穏やかではない感じのする血洗島の地名の由来はいくつかあるそうだが、"地粗い島"と呼ばれた説がしっくりくるように思う。この地域は利根川の砂が土に混じりレンガの材料にもなるような粗い土壌で、その地名は意味的にぴったりとあてはまる。島は川と川に囲まれた土地をいうので、または利根川と小山川に挟まれた土地の意味にあてはまる。上州などにも近く国境で養蚕や藍玉で裕福な地域を他から荒らされないようよそ者が好まない漢字を地名にあてたのではと思われる。 年明け(1864年)の2月の初旬、長七郎から突然の手紙が届いた。 それは"長七郎が何かことの間違いから捕縛されてついに入牢した(雨夜譚 余聞)"、というものだった。捕まえられた時には渋沢が以前送った手紙を所持していてそれが見つかってしまったこと、見つかった手紙には「攘夷鎖港の談判のために幕府はつぶれるにちがいない」という幕府批判の内容が含まれていたので渋沢にもいづれ幕府の嫌疑がおよぶだろう、という警告の内容が書かれていた。長七郎と同じく同志の中村三平と福田滋助も投獄された。手紙は江戸小伝馬町の牢獄から送られたものだった。 長七郎は文武の両道(海保塾、新堂無念流など)に精通した英才で渋沢に大きな影響を与えた人だ。「尾高長七郎という吾々の大先輩が剣術家になるつもりで早くから江戸に出て居り、その交友も広く、吾々と異なって天下の大勢を比較的弁(わきま)へて居った為めに、長七郎が江戸から帰村する毎に、当時の模様を委(くわ)しく説き聞かされて、私の血潮はいやが上にも沸き立つのであった。」(青淵回顧禄/「渋沢栄一」鹿島茂著)とされるほどの人だ。 後に渋沢はこの事件について"長七郎は一時の精神病で中山道の戸田原(戸田の渡し)で人を殺し(往来の者を斬り殺し)、幕府の捕吏に捕縛された(竜門雑誌)"と書いているがにわかには信じがたいものがある。横浜異人焼討ち計画の中止を提案する見識をもち、わざわざ渋沢のために牢獄から危険を知らせる手紙を送る人が精神病だったとは考えにくくないだろうか。 幕府が渋沢たち、血洗島での大人数での挙兵の計画を見逃すことはなかっただろう。清河塾の土蔵の地下に穴を掘ってまでして偵察していた八州取締りである。渋沢たちは狙われていた、と考えるのが経緯も含めて自然だ。特に長七郎は坂下門外の変でも嫌疑をかけられていたので重きを置いて偵察されていただろう。 不思議なことなのだが、長七郎が"誤(っ)て行人(通行人)を傷けた/(雨夜譚)"とも言われるものは八郎が"隠密を一撃した(斬った)"のと酷似している。これは偶然なのだろうか。隠密は本人が自覚しない正当防衛のような形で相手に斬らせるやり方、または斬ったように見せる高等な技をもっていて、これは幕府の捕吏、八州取締りの当り屋的手法でパターン化した手法だったのではないだろうか。八郎と同じように"でっちあげ"で長七郎たち血洗島グループを捕まえようとしたのではないだろうか。それを裏づけるようにいっしょにいた事件に関係のないはずの中村や福田も捕らえられている。(中村は捕縛されて5年後に亡くなった。福田の動向は不明。)その後の牢獄から手紙のやり取りなども加えてその様子は驚くほど虎尾の会事件のときと似ている。幕府は渋沢たち血洗島グループを一網打尽にしようとしていたのだろう。 この長七郎投獄の話は幕府を通して平岡にも話が入ったため、渋沢たちは呼び出され事実関係を問いただされたりした。その時の話し合いの中から幕府の追手から逃れるために平岡の薦めで一橋家へ士官することになる。渋沢は素直に家来となるだけでは事足りず召し抱えられるときの願い事として、慶喜に「見込書(意見書)」を提出することと拝謁することを願い出た。そして驚くことに許された。 この見込書には「・・・申せば非常の時勢がこの非常の御任命を生み出した次第なので、この御大任(京都の守衛総督になったこと)を全うされるにはまた非常の英断なくしては相ならざること、こうしてその英断を希望する第一着は人材登用の道を開いて天下の人物を幕下に網羅し、おのおのその才に任ずることを急務とする。/(雨夜譚 余聞)」などがあり、八郎の「急務三策」と向かって言う人の対象が違うだけで内容はほとんど同じ、文章もとても似ているものがある。他に天皇に提出した建白書の一部の内容、文の言い回しの内容にも似ているものがあり八郎の影響を受けていたか、八郎が影響を受けた同じ人に影響を受けたことが推測される。 すごいと思うのは慶喜の前で話した次の内容。渋沢の血気盛んな様子が現れている。 「・・・今日は幕府の命脈もすでに滅絶したと申し上げてもよいありさまであります。・・・畢竟(結局)幕府を潰すことは徳川家を中興する基であります。能々(よくよく)熟考してみればこの事は全く道理に当たるということが理解し得らるるようになります。/(雨夜譚 余聞)」 慶喜に激怒され牢獄に入れられてもおかしくない内容に思えるが、「一橋公(慶喜)はただふんふんと聞いておられるだけで一言の御意もなかった」という。八州取締りに追われて士官した一橋家によく言えたものだと思うし、慶喜の方もよくそのような人を取り立てたと思う。ここだけを切り取った感じで幕府に命を狙われている人間が幕府の次期将軍に言っていると思えば、冗談かとびっくりするような喜劇のような内容だ。渋沢の尊王攘夷の思想の怖いものなさ、志士としての勢いがすさまじい。 この中で1つ注目したいのは渋沢が幕府は滅絶したといいながら徳川家を中興できると考えている点だ。江戸徳川の時代が終わっても次の時代では徳川家はいくつかの担い手の一つという構想をもっていた、ということなのだろう。討幕、倒幕とはあくまで徳川家を政治の担い手の中心から降ろすという意味だったのだろう。過激尊王攘夷派の渋沢がそう思っていたのだから、尊王攘夷派の多くの共通認識で、戊辰戦争は必要がなく多くの人々が望んではいなかったのではないだろうか。現に渋沢喜作や尾高惇忠らは戊辰戦争で徳川方(幕府側)として戦っている。徳川家の存続を守る立場が佐幕派として混同されているのかもしれない。 (← 利根川南岸に広がる深谷市の河川沖積地、有名な深谷ネギがたくさん育てられていた。) ***** 〇 電子書籍での購読はこちらで ※"清河八郎編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。 出羽庄内 幕末のジレンマ(1)(清河八郎 編) Kindle版 ※"清川口戦争/戊辰戦争編"はこちらの本でまとめてご覧になれます。 出羽庄内 幕末のジレンマ(2)(清川口戦争/戊辰戦争編) Kindle版 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年03月06日 21時49分43秒
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