2-z (死について=1= 人間はいつ死んだといえるか)
-これは多くの知人からよく聞かれることで、とても厄介なことになっている問題ですが、つまり人間はいつ死んだと言えるかという問題です。最近の新開やテレビでも、いつ本当に死んだことになるかについて医師や法律家の間でずいぶん議論されております。心臓が停止したら死んだことになると言う人もいれば、脳死をもって本当の死だと主張する人もいます。あなたは何をもって"死んだ"と判断すべきだとお考えですか-この地球という惑星へ別れを告げる時、つまり物的身体と別れるのは......。
分かりました。ご承知の通り人間には霊が宿っています。その身体を生かしめている、神性を帯びた実在です。そして、その霊によって活力を与えられて初めて存在を得ている物的身体を具えています。
すでに述べましたように、霊が最終的に引っ込んだ時-この"最終的に"というところをここで特に強調しておきます。なぜなら一時的ならば毎晩寝入るごとに引っ込み、朝目が覚めると戻っているからです- 霊が最終的に引っ込んでしまえば、物的身体は活力源を失うので、死が訪れます。
さて、いわゆる"霊視能力"をもった人が見ると分かりますが、霊体と肉とをつないでいるコード(玉の緒)が霊体から次第に離れるにつれて伸びていき、それがついに切れた時、両者の分離が最終的に完了します。その分離の瞬間が死であり、そうなったら最後、地上のいかなる手段をもってしても、肉体を生き返らせることはできません。
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 206-207
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2-za (死について=2= 臓器移植には賛成できない)
-そもそもこの間題が生じたのは臓器を摘出する技術が新たに開発されたからです。今日では医師は生きた心臓とか腎臓を頂戴するために人が死ぬのを待っているという状態です。そこで問題となるのが"この人は本当に死んでいるか" "もう臓器を摘出することが許されるか"ということで、それが医師を悩ませる深刻な問題となっているわけです。
臓器移植については私もよく存じております。そして又、その動機が立派である場合が多いことも知っております。ですが私は、人間のいかなる臓器も他人に移植することには反対であると申し上げざるを得ません。
そもそも死というのは少しも怖いものではありません。死は大いなる解放者です。(このあたりから"大勢いるのです"というところまで、おかしさを噛み殺した言い方でしゃべっている)死は自由をもたらしてくれます。皆さんは赤ん坊が生まれると喜びます。が、私たちの世界ではこれから地上へ生まれて行く人を泣いて見送る人が大勢いるのです。同じように、地上では人が死ぬと泣いて悲しみますが、私たちの世界ではその霊を喜んで迎えているのです。なぜならば、死の訪れは地上生活が果たすべき目的を果たし終えて、次の霊界が提供してくれる莫大な豊かさと美しさを味わう用意がこの霊に具わったことを意味するからです。
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 207-208
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2-zb (死について=3= 死後の死体をどう取り扱うか)
- もう一つ、多くの人を悩ませているのは、死後の死体の取り扱いの問題です。人によっては、死体をいじくり回す前は一定の時間そっとしておいてあげる必要があると信じており、そういう人たちは、今日の医学界では人が死ぬとさっさと実験室へ運び込んで医学実験ないしは教材として使用する傾向があるので心配しているわけです。死後すぐに死体をいじくり回すと魂または霊に何らかの害があるでしょうか。
それはその霊が霊的なことについての知識があるか否かによって違います。何も知らない場合は一時的に障害が及ぶことがあります。なぜかと言えば、たとえ肉体と霊体とをつないでいるコードが切れても、それまでの永年にわたる一体関係の名残りで、ある程度の相互作用が続いていることがあるからです。一般的に言えば、霊的なことにまったく無知だった人の場合は、埋葬ないし火葬を行なう前に三日間は合間を置くことをすすめます。それから後はどうなさろうと構いません。死体を何かの役に立てるために提供したいのであれば、それは当事者がそう決断なさればよろしい。
ただ、次のことも申し添えておきます。人間には生まれるべき時があり、死すべき時があります。もしその死すべき時が来ておれば、たとえ臓器移植をしても、肉体をそれ以上地上に永らえさせることはできません。
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 208-209
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2-zc (死について=4= "突発事故"による死の霊的影響)
-それと関連した問題として"突発事故"による死の問題があります。たとえば百二十人の乗客を乗せた飛行機が離陸して十五分後に爆発して全員が即死したとします。この場合は乗客の魂または霊にどういう影響があるでしょうか。
今申し上げたのとまったく同じことです。霊的実在についての知識がある場合は何の影響もありません。知識のない人はショックによる影響があります。しかし、いずれ時の経過とともに意識と自覚を取り戻します。
-天命を全うしないうちに突発事故で他界した場合、次の再生が早まることになるのでしょうか。
私はその"突発事故"という用語が気に入りません。原因と結果の要素以外には何も働いていないからです。"たまたま"と思われるものも因果律の作用にすぎないものです。再生の問題についてですが、これは大へん複雑な問題で、もっと時間をいただかないと十分なお答えができません。
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 209-210
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2-zd (死について=5= 死者の霊に教えを読んで聞かせることの効用)
-最後に・・・・・最近私はルドルフ・シュタイナーの本を読んだのですが、その中で彼は"死者へ向って読んで聞かせる"という供養の仕方を説いております。この"読んで聞かせる"ことの効用についてご教示を仰ぎたいのですが。
"死者"というのは何のことでしょうか。
-ですから、物的身体から離れて霊界へ行った人たちです。
ああ、なるほど! 私はまた、目の前に横たわっている死体に向って読んで聞かせるのかと思いました。(ここでシルバーバーチ独特の含み笑いをする)
-違いますよ!
そうすることで一体どうなると言っているのでしょうか。
-何人かの弟子達が他界した親戚縁者へ向けて毎日かなりの時間、ある教えを読んで聞かせるというのです。それを聞くことで、その親戚縁者の霊がよい影響を受けると考えているわけです。
別に害はないでしょうが、大して益になるとも思えません。こちらの世界には受け入れる用意のできた人なら誰でも知識が得られるように、たくさんの施設が用意してあります。受け入れる素地ができていなければ受け入れることはできません。それをそちらでしようと、こちらでしようと、それは同じことです。そうでしょう、サム、師は弟子に応じて法を説くほかはないわけでしょう。
(訳者注)原則的にはシルバーバーチの言っている通りかも知れないし、事実、霊界ではわれわれの想像を超えた規模で地縛霊の救済が行われているのであるが、それとは別に、愛着を覚える人間に意識的にあるいは無意識のうちに寄りそってくる霊がいて、その人間が考えていることや読んでいるものによって感化されるということは実際にあるようである。背後霊がそう仕向けるのである。その意味からも私は、読経のように形式化するのは感心しないにしても、例えばシルバーバーチの名言をくり返し読んだり祈りの言葉を声に出して唱えることは、自分の魂の高揚になるだけでなく、聞いてくれているかも知れない霊にとっても勉強になると考えている。シルバーバーチは"よくあなた方はご自分で想像しておられる以上に役に立っておられますよ"と言っているが、それはそういう意味も含まれているのではないかと考えている)
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 210-212
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2-ze (霊に十分な準備が整わないうちに起こる肉体の死)
人間が"死"と呼んでいるのは物的身体が物を言わなくなる現象です。用事が終わって霊との縁が切れ、元の大地へ戻っていくのですが、往々にしてそれが、霊に十分な準備が整っていないうちに起きるのです。それはともかくとして、霊は肉体という牢から解放されて、それよりはるかに精妙な構造をした霊的身体で自我を表現することになります。地上では眠っていた霊的感覚が発揮されはじめると、その活動範囲も飛躍的に広がります。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.32
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2-zf [46-zt](死後に赴く界層は地上で培われた霊性にふさわしい所である)
死後あなたが赴く界層は地上で培われた霊性にふさわしいところです。使命を帯びて一時的に低い界層に降りることはあっても、降りてみたいという気にはなりません。と言ってそれより高い界層へは行こうにも行けません。感応する波長が地上で培われた霊性によって一定しており、それ以上のものは感知できないからです。結局あなたが接触するのは同じレベルの霊性、同じ精神構造の者にかぎられるわけです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.34
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2-zg (霊的に無知であれば死後しばらくは地上に戻ってうろつく)
こちらへ来た当初は霊的環境に戸惑いを感じます。十分な用意ができていなかったからです。そこで当然の成り行きとして地上的な引力に引きずられて戻ってきます。しばらくは懐しい環境-我が家・仕事場など---をうろつきます。そして大ていは自分がいわゆる『死者』であることを自覚していないために、そこにいる人たちが自分の存在に気づいてくれないこと、物体にさわっても何の感触もないことに戸惑い、わけが分からなくなります。しかしそれも当分の間の話です。やがて自覚の芽生えとともに別の意識の世界にいるのだということを理解します。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.35
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