つまりその中心思想はなんであるかと言いますと、横に広がる真理は現象界は本来空無であって唯心の所現であるから、心に従って自由自在に貧でも病でも富でも健康でも不幸でも幸福でも現すことができるということであります。それから縦を貫く真理は、人間本来神の子であり仏子であり、無限の生命、無限の智恵、その他すべての善徳に充ち満たされている。それがわれわれの實相であるというのであります。さてわれわれの實相が久遠実成の仏であるにしても、それが現象界、すなわち現実世界にあらわれなければ、今までの仏教と同じように、仏教学者の手で高遠な理屈が述べられるだけで、宗教と生活とが一枚になったと言われないのであります。
(頭注版 『生命の実相第17巻93頁 引用)
私は今現在マンションの十一階に暮らしています。 人間は一階にくらして居る人、三階に暮らして居る人と様々です。当然一階に住んで居る人には、二回三階に暮らして居る人の生活ぶりは見る事ば出来ません。 高い階に暮らして居る方は一階の人が「ああ庭掃除をしている」とか「犬と戯れている」と皆見える訳です。「こうしたら、幸せになれるのに」と思っていても、一階に暮らしている人には、判らない。 一階からは二階の人の暮らしぶりは見えないのです。 では、どうしたら、一階の人が三階の人の暮らし振りを十階の人の暮らし振りを見れるか、 それは、簡単なのです。マンションのエレベーターに乗って十階まで上がって来れば良いだけなのです。 「何を馬鹿な事を書いているか」 とお怒りの方も居ると思います。 しかし、人生は同様の事が実に多いのです。 一階の人も、十階の人も同じ人間ですが、暮らして居る階層の「観(みかた)」が変わることが肝心です。 このエレベーターに乗る事が、例えるならば、「生命の實相哲学」を身に付ける事なのであります。しかし、それが簡単なようで、中々判らない。 「何だ馬鹿らしいエレベーターに乗るだけじゃないか」 ところが、エレベーターの入り口が判らない。エレベーターのスイッチボタンが、操作が判らない。それが例えるなら、自己の魂を「内観」する瞑想法や、聖典を読み理解すること。そして実際にエレベーターに乗って見る事。(真理の生活への実践) そうすれば誰でもスカイツリーのような大展望も自由自在、快適な人生を送れるものです。 それを学ぶ事が「生命の實相」に書かれています。 |