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カテゴリ:ちょっと思うこと
以前に、このblogに書いた「日本一の塩ウニ」に登場する、私の友人の作る100%エゾバフンウニと、天然塩と少量のアルコールで造られる塩ウニを食べるまでは、私は一番美味しい塩ウニは礼文島に嫁いだ私の従姉妹が送ってくれた塩ウニだと信じて疑わなかったのです。
具体的な食物の味などの場合は、こうして自分が過去に経験した物の中で最も良い印象を残した物が最高の味として、自分の脳に記憶されることになってしまうのです。 私の脳の記憶庫の中の、塩ウニの分類では、私の友人の造る「粒ウニ一夜漬け」というものが最高の味として記録されているわけだが、味の場合、経験がないとそれ以上のものに出会うまで、それ以上がどのような物か、なかなか想像することが出来ないのが普通ではなかろうか?・・・・ただ、ウニで言えば、ウニの卵巣だから、崩れていないこと、ある程度成熟し大きいこと、崩れていないことでウニの卵の粒状感が舌の上で食感として有ったら・・・など、更に良いクオリティーを論理的に想像することは可能だろうが、味覚のような、おおかた受動的感覚である「味」の理想というものはなかなかイメージ出来ない。というのが現実だろう。 したがって、料理人やこうした加工食品を作る人は、自分の記憶にある最高の味を、ひとつの模範として、それに近づけることからスタートするのが一般的な努力の形だろうと思う。 尤もそして自分の記憶の中での最高の位置に達してからがプロの本当の努力が始まるのだと思うが・・・・。 私は、趣味として絵を描くことも好きだったから、僅かに昔描いたデッサン等も残っている。このblogにも何点か画像としてアップもしたが、アマチュアとは言え精密画に特化した描写などは、描いている本人が、これ以上はありえないという正確さ緻密さで描こうとするならば、それは写真と判別がつかないレベルにならなければならないはずだ。 さらにプロフェッショナルなメカニカルイラストレーターやスーパーリアリズムアートに注力する方は、恐らくだが、写真以上のインパクトや印象をそこに求めるはずだ。なぜなら写真と同等ならば描く必要など無く、「写真を使えば良いだけの事だ」ときっと思うことだろうし、写真と見まごうばかりの出来栄えというレベルは、その作家にとって理想の位置づけではないはずだからだ。 たぶん、理想は写真よりもっと高いところに置いているのではないかと私には感じられるので、写真みたいなと言う言葉は褒め言葉にはならないと思うのだ。 此処に貼り付けた私の車のデッサンなどは、私の高校時代のデッサン力のレベルを示しているのだろうし、ここでやめているということも、その当時自分がどんな理想を持ってで描いていたかほとんど記憶も無いので、自分の理想がどの程度なのかを推し量る目安にはならないのかもしれない・・・。 当時と比較して、さほど描く技術は進歩していないと思うが、理想は今のほうがずっと高く、もし今描いて、リアリズムに徹して完成させようとするなら、この絵はまったく不十分極まりない物と言えるものだ。 もし私がこのデッサンの最終的理想を、写真と区別がつかないレベルに仕上げることにおいていたなら、根性だけの問題に思えるから、実際に写真と区別がつかないと自分が思えるところまで妥協せずに頑張ればよいと言うことなのである。 たとえ理想に到達することは出来なくても、かなり理想に近づくことは可能なはずなのだ。 そこで、本題だが・・・。 人間のありようとしての自分の理想形はどのようにイメージされているだろうか?また、そうした理想が心の中に存在しない人もいるかもしれないのだが、私としては、自分がどんな人間でありたいかと言う明確な理想像を持っていないとするなら、そして持っていたとしてもその目標が、徳の高い人格者に向けられていないとするなら、決して人として尊敬を得るような人物にはなり得ないだろうと思うのだがどうだろう?(尊敬される人になりたいと思っていようがいまいが) 私は、そうした模範と言うような、自分が到達したいと思うような高い徳を持った人格者に憧れたし、そういう人になりたいと今も思っている。 極力、利己的でないこと、公平であること、正直で嘘を言わぬこと、意志を強く持つこと、誠実であること、他人の言葉に耳を傾け、柔軟な心を持つこと、全てに高い理想を持つこと、約束を守ること、寛容で他をいたわる心を持つこと、謙虚であること、思慮深く、勤勉であること、などが具体的な言葉で言える目標の数々であるのだが、短くいえば「誠実で柔軟な人間になりたい」と言うことだろうと思う。 そうした、自分にとって人間像としての理想を即座に挙げられないとするなら、それは少し問題であると思うのだ、少なくとも貴方にとっての理想の人間像とはどんなものでしょう?と聞かれて明確に返事が出来ないとするなら、やはりそこが問題なのだ!明確な目標がないと人はなかなかそうした領域に到達しない物だから、人格の成長も同じではないだろうか、正しい目標を明確に意識して自分を律して行かなくては、なかなか自分の理想とする高みに到達することは出来ないのではないだろうか? 親や教育者はしかるべき時期に、過去の偉人や、思想家、哲学者、宗教家などの書物などを心の成長期に合わせて読ませたり話したりして導かねばならないだろう、そのためには親たる自分たちが、先ず人として素晴らしいということは何が優れていて、どういう人間であるべきかと言う部分で間違ってしまってはいけないと思うのだ。 健常な子供には高い理想を持つように指導し、さらに、身近な一歩一歩の直ぐ先の目標を達成させるように指導して、努力して達成したことによる満足感を経験させ、さらにより高い目標を達成したときには大きな満足感が来ることを想像できるように指導せねばならないと思うのだ。 理想が高ければ高い分だけ、その人は大きな可能性があると言えるのではないだろうか?自分で限界を作ってしまえば、よくしてもそこまでになってしまうと思う。 世界の最高峰を目指して努力すれば、日本の最高峰にはいつのまにか到達してしまっている。といったことも有り得ると思うのだが、もし自分の最終的な目標を自分の家の屋根ほどの高さにしか設定していないとしたら、富士の高嶺には決して届くことは無いだろうと思えるのだ・・・。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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