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銀クロのまだまだ迷える不惑の日記 1

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2006.06.30
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カテゴリ:ボクの細道
6月24日、芭蕉一行は昼には多賀城に到着し、宿で食事後、早速に歌枕見物に出かけます。多賀城は奈良時代、平安時代から多くの歌人達に詠まれた歌枕の宝で、芭蕉をさぞかし魅了していた事と想像がつきます。

まずは壷の碑(つぼのいしぶみ)へ向かいました。壷の碑は多賀城跡の南門跡近くの、覆堂内に納められています。この石碑は古くから存在が知られていて、各時代の多くの歌人・武人(西行・源 頼朝・和泉式部…etc)らに詠まれていましたが、その後忘れられ、芭蕉が訪れる30年程前に地中より発掘されたということです。当時は
この覆堂も無く野ざらしとなっていたようです。
壷の碑-1.jpg

このタタミ一枚程の石碑は、天平宝子6年(762年)に作られたとされています。
西暦762年というと、今から1244年前という途方も無く古いモノです。

壷の碑-2.jpg

碑文は磨滅していて読み難いのですが、多賀城政庁の設立年次や都(奈良)からの距離等が刻まれていて、記念碑的なものではないでしょうか。
歌人達の多くは、実際にこの壷の碑を見た事が無く、”未知之国”みちのくへのロマンの象徴として憧れていたのでしょう。

壷の碑-3.jpg

因みに、この石碑は江戸時代から現在まで真贋論争が続いていましたが、平成10年に重要文化財に指定され、一応ホンモノという事で落ち着いています。


こちらは末の松山と呼ばれる歌枕であります。

末の松山-1.jpg

これまた歴史が古く、古今和歌集にはその名がみられ、多くの歌人達に愛されていました。

末の松山-2.jpg

古今和歌集の清原元輔の歌碑が、松の根元近くにありました。


まだまだ続きます!こちらは末の松山のほど近くにある、沖の石という歌枕です。

沖の石-1.jpg

現在はご覧の通り、住宅地の中に埋もれていますが、歌に詠まれていた当時、この辺りは海岸であったのではないかと想像されます。

 

沖の石-2.jpg

二条院讃岐の歌にも残る名所なのですが、僅かに湛えた水に映る住宅を見ていると、芭蕉が受けた感慨が羨ましく思えます。


多賀城には、まだまだ古来からの歌枕があります。芭蕉はおくの細道本文では大変な感激様で満足したことでしょうが、ナゼカ?ここでも句を詠んでいませんでした。今回は芭蕉が訪ねた代表的な場所を選びました。次回は多賀城市のお隣、塩竃編を更新します。


 

 

 






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Last updated  2006.07.01 04:19:07
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