白洲次郎と正子の世界展に行ってきました^^
白洲次郎と正子の世界展 ~「風の男」と「韋駄天夫人」の物語~を観るために 福岡アジア美術館に 行ってきました(^^)/偉人の肖像というホームページには こんな事が 書いてありました以下引用開始---------------------------------この人は「日本で一番カッコいい男」と、ある書籍のサブタイトルで評されている。「僕らはあなたに憧れる」というインターネット上の投票では、ダントツの1位になっている。ちなみに、第3位が坂本竜馬だが、彼はその10倍の票を獲得している。( サラリーマンスタイル・ドット・コッム を参照) 白州次郎は、昭和60年に83歳で没しているが、比較的最近の人である。こんな凄い日本人がいたことを、私が知ったのは、今年の5月に雑誌「サライ」の特集を見てからである。 写真を見るとたしかにカッコいい。写真1は49歳の時である。戦後間もない頃なのに、ジーパンとTシャツ姿をしている。アメリカ映画の一場面のようで、何となくジェームス・ディーンを彷彿させる。写真2は、同じく49歳時のスーツ姿で、公式の席ではイギリス流の紳士スタイルを貫いた。写真3は27歳の結婚式の時のものである。相手は樺島伯爵令嬢正子で、後に古美術や古典文学関係の作家として有名になった「白州正子」である。 兵庫県芦屋の富豪・白州商店の御曹司。イギリス・ケンブリッジ大学を卒業し、イギリス流の紳士道を身につけた。身長180cmのハンサムボーイで、生涯スポーツカーを乗り回した。 生まれも、育ちも、容姿も申し分ない。しかし、これだけでは「日本で一番カッコいい男」とは言えない。白州次郎が、「カッコいい」真骨頂を発揮したのは、戦後占領下である。 1945年8月の敗戦から、1951年9月のサンフランシスコ講和会議までの6年間、日本は独立国でなく、他国の占領下にあった。連合国軍総司令部(GHQ)が日本を支配し、最高司令官マッカーサーが、最高権力者だった。 昭和20年9月29日、新聞の一面に、天皇陛下とマッカーサー司令官の二人が並んだ記念写真が掲載された。正装の天皇に対し、マッカーサーはノーネクタイの略装だった。この写真は日本国民に衝撃を与えた。政府は直ちに新聞を発禁にしたが、GHQは発禁を解除した。国民のだれもが敗戦を痛感した。そして、支配者が誰であるのかも思い知らされた。 日本人は自信を失い、GHQの顔色を見て右往左往した。そのような時、白州次郎は吉田茂外務大臣の要請で終戦連絡事務局参与となり、GHQとの交渉にあたった。GHQに対して卑屈な官僚や政治家の中にあって、白州次郎は筋を通し、一歩も退かなかった。GHQは舌を巻き、「従順ならざる唯一の日本人」と、本国に連絡した。 代表的なエピソードが二つある。 昭和20年12月のクリスマス。マッカーサー司令長官に白州次郎は天皇陛下からのプレゼントを届けた。部屋のテーブルの上はプレゼントでいっぱいだった。マッカーサーは床のどこかに置いていけというという仕草をした。すると次郎は「いやしくも天皇陛下の贈り物である。床などにおけない」と怒りを爆発させた。驚いたマッカーサーは、急いで新しい机を運ばせた。 GHQ民政局長ホイットニー将軍が「白州さんの英語は大変立派な英語ですね」とお世辞を言った。そこには、勝者としての奢りが込められていた。これに対して、白州次郎は「あなたももう少し勉強すれば立派な英語になりますよ」と答えたという。 日本人が歴史上最も自信を喪失し、卑屈になっていた時期、支配者に対し、日本人の気概を示した人物が白州次郎だった。この姿こそ、まさに「カッコいい」と言える。---------------------------------以上引用終了白洲次郎も 白洲正子も 私は 知りませんでした知人の薦めで 見に 行ったのですがやはり 格好いいですね!!次郎氏は あの時代にあって ジーンズをはいたり外車を 乗り回したりと いち早く 洋を 取り入れた 人でした正子氏は 逆に 近代における 和を 追求した 人でしたこんな二人が 夫婦だと 言うことが 奇跡なんですねもっといろいろと 学びたい 方々です個別指導塾スクールIE前原駅前校のホームページは ↓***********************************My mission 成功の お手伝いを とおして 共に学び 共に 成功体験を 共有すること***********************************