健康長寿村に調和する嘉例吉シーサー群像@北中城村「荻堂かりゆしシーサー/荻堂集落」
(伊達政仁 作)沖縄本島北中城村「荻堂(おぎどう)」は世界遺産の「中城グスク」の北側に位置し、古いカー(井泉)や縄文時代の貝塚を有する歴史の深い地域です。「荻堂集落」は県道146号線を中心に広がっており、東側は「大城(おおぐすく)集落」西側は「安谷屋(あだにや)集落」に挟まれています。「荻堂集落」の中心部に「イーヌカー(上の井泉)」があり、北側に隣接して「荻堂のシーサー群像」があり「荻堂のかりゆしシーサー」とも呼ばれています。北中城村文化協会の「シーサーで景観を創る会」により14体のシーサーが設置されています。(新垣正良 作)(安里幸男 作)(山下由美子 作)「荻堂集落」の北側に琉球石灰岩の丘陵崖下に形成された約3,000~3,500年前の「荻堂貝塚」があります。この貝塚は沖縄本島東海岸の中城湾に臨む標高約140mの丘陵に位置します。沖縄最古級の琉球縄文土器時代前期の貝塚として知られており、1972(昭和47)年の5月15日に国に史跡に指定されました。この貝塚は1904(明治37)年に鳥居龍蔵氏により発見されました。鳥居氏は人類学者、考古学者、民族学者、民俗学者で1904年に沖縄本島や石垣島の貝塚を調査して沖縄の先史文化を初めて紹介しています。(辺土名寿男 作)(山内米一 作)(穴倉広美 作)「荻堂貝塚」は1919(大正8)年に東京帝国大学(東京大学)の松村瞭氏により発掘調査が行われ、三枚の堆積層(表土,混貝土層,基盤の石灰岩)からは各種の南西諸島産貝殻、魚骨、獣骨の他にも土器、石器、貝製品が出土しています。特に土器では先端が二又の形をしたヘラで描かれた平行線文、山形文、爪型文などの文様が施された「荻堂式土器」が発掘されています。「荻堂式土器」の特徴は山形の口縁で平底の深鉢形を主体とし、わずかながら壺形を伴っています。文様は口唇部と口頸部に描かれ、口縁内面や胴下半部は文様が施されません。「荻堂貝塚」からの出土品は南島先史時代研究の標準資料となっています。(比嘉泥佛 作)(佐野壽雄 作)(国吉安子 作)14体の「荻堂かりゆしシーサー」はイーヌカーと呼ばれる井泉の北側に隣接して設置されています。「荻堂集落」はカー(井泉)の数が豊富で、他にもヒージャーガー、メーヌカー、イリヌカー、タチガーという井泉からも豊かな水が湧き出ています。「荻堂集落」周辺の地質は水を通しやすい琉球石灰岩と、水を通さない島尻層群(クチャ層)で構成されています。そのため隣接する「大城グスク」や「ミーグスク」更には「メーヌマーチュー」と呼ばれる丘陵に雨が降ると其々の層の境目を高所から低所に向けて水が流れ込み、地層の割れ目から湧き水が出る仕組みになっています。「荻堂集落」は古より豊富な水源と共に栄えた歴史を持つ「水の集落」と言えます。(糸村昌祐 作)(新垣秀昭 作)(外間裕 作)「荻堂貝塚」の丘陵北側の麓に「タチガー」と呼ばれる井泉が湧き出ています。この井泉だけは「荻堂集落」の他の井泉とは水源が異なっています。この井泉には清らかな湧き水が未来永劫に残る事を願い、祠地蔵尊(ほこらじぞうそん)が建立されています。その昔、水に濡れた犬が出入りしている小さな穴を見つけた人が、その穴を掘り下げて行ったところ、豊富な水が脈々と湧き出てきた話が伝わります。この「犬が見つけた湧き水」という有名な民話に由来したカー(井泉)が「タチガー」です。(青柳晃 作)(荻堂かりゆしシーサー)「荻堂集落」の西側丘陵の頂きには「荻堂の歌碑」が建立されています。この歌碑の挽物口説(ひちむんくどぅち)は、挽物大工が那覇市の若狭町から中部の「荻堂/大城集落」の坂を通って具志川の田場や天願へ仕事に出かける時に歌われた道中歌です。歌碑には挽物口説の有名な一説が記載されています。『(津波) あの坂 何んて言ゆる 坂だやべるか (主) あれややう津波 津波やう 荻堂大城の坂んて 言ゆんてんと (津波) あんす高さる坂も あやべさや』また「荻堂集落」は日本で一番早く咲くひまわりの祭り「北中城INひまわり」が開催されるなど自然と文化が共存する、平穏でゆとり溢れる集落となっているのです。