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カテゴリ:本、テレビ、映画
いつも録画しているNHKの『クローズアップ現代』。
昨日録った分を今日みようと思ったら番組の始めにいきなり出た。 この国には何でもある 本当にいろいろなものがあります だが、希望だけがない おおおお??権造のフェバリットブックのうちの一冊、村上龍の『希望の国のエクソダス』の中の一節である。 流し見しようと思っていたのだが、思わず目が釘付けになり結局チビを寝かせながら小さい音量にして見ていた。 今回はいつものスタジオではなく、東大の『希望学』教授にインタビューという形式だったのだが、希望学という学問があることを初めて知った。2005年からのまだ新しい分野だそうだ。 その前に。 希望って言う言葉を聞くといつも思うのが『希望がある、ない』と『夢がある、ない』、『希望一杯に』と『夢一杯に』などなど同じような使い回しをする『夢』って、『希望』とどう違うんだろうか。 辞書によると: きぼう【希望】 1 あることの実現をのぞみ願うこと。また、その願い。「みんなの―を入れる」「入社を―する」 2 将来に対する期待。また、明るい見通し。「―に燃える」「―を見失う」 3 文法で、1の意を表す言い方。動詞に、文語では助動詞「たし」「まほし」、口語では助動詞「たい」などを付けて言い表す。 ゆめ【夢】 1 睡眠中に、あたかも現実の経験であるかのように感じる一連の観念や心像。視覚像として現れることが多いが、聴覚・味覚・触覚・運動感覚を伴うこともある。「怖い―を見る」「正(まさ)―」 2 将来実現させたいと思っている事柄。「政治家になるのが―だ」「少年のころの―がかなう」 3 現実からはなれた空想や楽しい考え。「成功すれば億万長者も―ではない」「―多い少女」 4 心の迷い。「彼は母の死で―からさめた」 5 はかないこと。たよりにならないこと。「―の世の中」「人生は―だ」→夢に →夢にも って説明されている。 権造の言っている希望は1と2であり、夢は2と3になると思われる。 こうやって定義を見てみる限り、希望という言葉の方が現実的というか建設的と言うか。 夢の方がもうちょっと抽象的だったりするようなイメージがある。 さて、この希望学というのは希望を社会的・科学的に分析解明していく学問なのだが、この東大の教授達は大規模なリサーチを行った。全国に行ったアンケートの結果から見えてきた数字の一部がこちら。 * 年収 年収1000万円以上の世帯―希望があると答える割合が高い 年収300万円以下の世帯―希望そのものに否定的 * 学歴 実現見通しのある希望がある 中学・高校 56.9% 四年制大学・大学院 71.0% * 孤独 実現見通しのある希望がある 孤独だと思う 49.2% 孤独だと思わない 69.5% そして教授達が注目したエリアのうちの一つが福島県である。 福島県は平均貯蓄率が全国1位、持ち家比率が全国3位であるのに、将来に夢や目標がある、という事に関しては全国44位だそうだ。 このことから必ずしも金銭的豊かさが希望に直結するものではないという事が分かる。豊かであっても希望が持てないという事に対し、教授は希望というものには『変革』が必要だと言っていた。今よりも違うもの、今よりももっと違う何か、というものを求めるのが希望に繋がっていて、『先が全く見えないときにも見えてしまったときにも希望は持てない』という事だった。 丁度希望学が学問として確立された時代背景は『勝ち組・負け組』という言葉が生まれた頃であり、個がそういったものにカテゴライズされていく中、自分なりの『物語』を作って価値観を持つ事が希望に繋がるといっていた。 もう一つ注目されたエリアは岩手県の釜石市である。 かつて製鉄の街として繁栄を極めたこの釜石市も1989年に最後の高炉が閉鎖されて基幹産業を失ったこの街は存続の危機に曝された。 ここで市役所の企業立地推進部の人達が立ち上がり、新たな企業の誘致のために奔走し、その後撤退していく企業も多い中、残った企業に出向いては『何故釜石に残ったのか』を丹念に調査していった。高い技術力や大規模で機能性をもった港など製鉄の街として培ってきたものが評価されている事を知り、自分達の街にはこんな優れたものがあるじゃないかとその後も努力を重ねて企業は次々と成功していった。 こういう地域の強みを見直すことを希望学では『ローカルアイデンティティの再構築』と言うそうだ。 それに加え、釜石に戻ってくるUターン組を年代別にまとめてみると、1965年生まれ以前の年代に関して言うとその年代の人口のうち、一旦外に出てUターンしてくる割合は他のどの年代よりも多い31.4%だそうだ。 こういう人達が生まれ育ったふるさとに愛着を持ちつつ外に出たときに学んだノウハウや他の街で作った人脈を利用して新しい考え方や経路を見出し、希望再生の大きな力となtっているそうだ。 この釜石で教授達が注目した人の中に70歳を超えた男性が居るのだが、過去に廃れていく自分の村を救うべく遊園地を開いてみたが3年で行き詰まり廃業。その後70歳にして再び融資を受けて地元で取れる天然水を販売する事業を始めた。今は7人の従業員を持つ小さな会社であるが、地元に残りたいと希望する人達に職を提供していきたいそうだ。 こういった都会ではない小さな街は元来『過疎の村』なんて言葉に表れているように否定的な意味が多かった。が、イギリスなどでは『コンパクトシティ』と言われ大都市では不可能な地域市民の結束や機動性など随分前向きに見直されているらしい。 教授もこの70代の男性にはかなり感銘を受けたようで、失敗にもめげずに挑戦していく原動力となるものは何かと聞いた。返って来た答えと言うのは『だれか3人が誉めてくれればいい。』というものだったそうだ。 結局希望というものは自分個人がそれぞれ自分のストーリーを作っていく先にあるもので、既成の希望を求めたりするのは今の時代に合わないのではと言っていた。 個人の希望への挑戦が地域全体の希望へと繋がっていき、それが国全体の希望へと向かって行くことが大事だと言っていた。 そうだよな~。国の政策として『美しい国ニッポン』だの『日本を明るく強い国にする』だのと希望ではなく夢っぽい既成のものに向かって地域やその中の一人一人が一体それって何??と思いながら進んでいくよりも、自分はこういう希望を持っているし実現したい、私にはこんな希望がある、という個々の人達が頑張る事によって、その人達の地域が潤いそれが国の繁栄に繋がっていくというほうが力強い気がする。もちろん国としての方向性は政府として示すのが重要ではあるが、心の拠り所というのを個人が自分で持って自分なりの目標に向かう事も大切だと思う。 『挫折や失望を乗り越えた先に希望がある。』と教授は言っていた。 最初の『希望の国のエクソダス』と照らし合わせて権造が思うのは、あの小説の中でポンちゃんや中村くんを始めとする中学生達は挫折や失望を乗り越える為に学校に通うのを辞めたんだな~と言う事だった。ぼんやりと何か自分達に必要なものに向かって行くスタート地点が不登校だったわけだ。 冒頭に出てきたセリフを言ったポンちゃんは希望というものがどんなものかも生きていく上で必要なものかも分からない、というような事を言っていた。でも何かを始めるという事は乗り越える作業の一部分であり、きっとその先には具体的に実感できなくても変革の結果の何か希望みたいなものがあるはずだ。 希望学って多分ベーシックに生きていく為の当たり前な事柄が多いと思うんだが、改めて学問として『枠に入れてしまう』必要ってあるんだろうかと最初は思ったが、見てみると『コレが希望』という定義化ではなく、いきつくまでの道のりの研究みたいなものだと思った。 いろんな人の物語も面白かったし、先日日記に書いた部分とも少しだけシンクロしてるようでなんだかやっぱり勉強になった。 権造の希望ってなんだろう。 『チビ達の成長を見届けて、その後帰りたい時期に日本に帰る』って事くらいしか今思いつかない。コレが『チビの成長を見守りながら幸せに暮らす』なんてものだと希望じゃなく夢っぽいが、帰りたい時期に日本に帰る、なんてリアルな望みもあるからやっぱり希望の部類に入ると思う。 もっと細かい近未来の希望も無意識に持ってるんだろうとおもうが、、。出てこない。 ま、そんなもんだし、コレが希望!って意識しまくりだと希望に縛られてそれはもはや希望ではなく『~しなければならない』って強迫観念になると思う。 やっぱ権造の座右の銘『飄々と生きる』というのが権造にとっては一番だ。あ、この座右の銘なんかは夢のたぐいなのかもしれない。 オレは希望ってバッチリ分かるぜと言う人も、アタシは今すぐ浮かばないけどきっと探してみせる!と言う人も、クリックよろしくお願いします。 ↓↓↓ にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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