ハンカチが1枚では足りなかった
映画「聲の形」を見てきた。予備知識はほとんどなく原作を読まずに見たためか、ものすごく感情を揺さぶられる結果となった。小学生の時に転校した先でうまく馴染めず、いじめられた時期がある。横浜から逗子へという、神奈川県内の電車でほんの30分程度の移動だ。逗子という場所は今でこそおしゃれなリゾート地のイメージがあるけど、それは逗子マリーナ周辺だけであって、基本は漁師言葉の残る田舎町なのだ。狭い世界で生きる小学生にとっては戸惑うのに十分な変化だった。その時に学校の先生というのは何の役にも立たないどころか、いじめを助長するような存在だと知ったし、プチ登校拒否にもなった。いじめがエスカレートせずに済んだ理由は、足がそこそこ速く、野球とドッジボールが上手かったからだ。小学生男子の世界では、勉強できる奴は妬まれるが、運動できる奴は基本的に尊敬される。「お前気に食わないけど、ドッジボールできるからな・・・」と直接言われたわけじゃないけど、そんな空気を感じて少しづつ受け入れられた。中学生の時は逆にいじめに加担したことがある。自分としては面白がって参加しているだけの意識だったが、対象の女子生徒が泣き出してしまったのだ。その時に、もしかしてとんでもないことに加担していたのでは?と気付いてすごくショックを受けた。まさか自分がいじめをしているなんて思わなかった。しかし時はすでに遅く、今さらその子に謝ることもできなかった。最低である。そのシーンは30年以上たった今でも目に焼き付いていて忘れられない。そんな過去があるためか、映画を見ていて見るのがつらいシーンもあった。主人公はいじめ、いじめられ、複雑な感情を持ったまま人間関係で苦悩する。しかし同時に暖かい気持ちにもなれた。なぜか物語全体に抱擁感があるのだ。石田君の母親・姪っ子、西宮さんの祖母・妹などそれぞれの家族の存在が実に暖かくて、それが物語全体の安心感に繋がっているのかもしれない。映画の途中からもう涙が止まらなかった。原作も読んでみよう。