いり豆 歴史談義

2007/09/09(日)19:56

勝と龍馬と西郷と

シリーズ幕末史(86)

勝海舟のもとで、神戸海軍操練所の塾頭として活躍していた坂本龍馬は、 勝の使いで、西郷隆盛を訪ねました。 元治元年(1964年)8月のこと。 勝が西郷はどうだったかと聞くと、龍馬は 「西郷は馬鹿である。しかし、その馬鹿の幅がどれほど大きいかわからない。 小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴る」 と釣鐘に喩えて、答えたといいます。 勝も、この人物評に感心したそうです。 幕末の政局の行方・・・。 その鍵を握っていたのは薩摩藩でした。 薩摩は、元々公武合体派で 急進的な尊王攘夷主義を掲げる長州に対して、 徹底的に対抗し続けてきた経緯があります。 さらに、八月十八日の政変で、会津藩と手を組んでからは、 なお一層、反長州の立場を鮮明にし、 蛤御門の変では、幕府側に立って長州を京から撃退しました。 しかし、このように幕府側に立ち、 反長州の中心勢力であったはずの薩摩藩が、 蛤御門の変のあとくらいから、その方針を急転換します。 なぜか、反長州の色合いを弱め、幕府よりの立場から離れていきます。 こうした、薩摩の急激な方針転換。 そのきっかけとなったのが、 西郷隆盛と勝海舟の会談だったのではないか、 と思われます。 この時期くらいから、薩摩の幕府離れの傾向が見られはじめるのです。 勝と西郷の会談は、元治元年(1964年)9月のこと。 この時期、西郷は、薩摩藩の代表として、 対長州政策など、幕府の施策にも関与していました。 西郷は、長州処罰については、国替えも含めた厳罰に処するべきであると考え、 その取りまとめに奔走していました。 しかし、幕府が中々動かないので、その様子を聞きたいと思い、 当時、軍艦奉行の地位にあり、幕府の切れ者と評判の高い勝海舟を訪ねたのです。 2人は、これが初対面。 勝は、この会談で西郷に、 幕府にはもう、政治を取りしきる力はない、 むしろ、雄藩が連合して国政を動かさなければいけない。 という話をします。 勝は、手厳しく幕府の内情を話し、西郷もこれを聞いて驚きました。 さらに、雄藩連合も(先の参与会議のように)幕府が入るとまとまらないので、 雄藩のみでまとめるべし、という構想を述べます。 そして、勝の持論でもある、挙国一致論。 西欧諸国が、隙あらば日本を植民地にと狙っている中で、 勤王や佐幕などは二の次で、今は、国内で内輪もめをしている場合ではない。 こうした、話を聞いて西郷はいたく感銘を受けたようでした。 国元にいる大久保一蔵にあてた手紙の中でも、 勝のことをほめたたえて、 「ひどくほれ申候」と書き送っています。 勝と西郷との出会い。 このことは、幕末史に少なからぬ影響を与えていくことになります。 一方の、勝海舟は、 そうした中、やがて幕府首脳から、にらまれるようになりました。 神戸海軍操練所に、多くの浪士を入所させていたこと等を理由として、 失脚させられます。 幕府は、駄目であるなどと放言していたことが、幕府首脳にも漏れたのかもしれませんし なにより、幕府権力を強化し・反動化し始めていた幕府には、 勝の存在は邪魔であったのでしょう。 10月、勝は、幕府から江戸に戻るよう命令を受け、 11月には、軍艦奉行の役を罷免され、屋敷に謹慎することとなります。 それと共に、神戸海軍操練所も閉鎖されることとになりました。 これ以降、坂本龍馬は、勝海舟の下を離れ、薩摩の西郷の下に身を寄せます。 これも、勝海舟が西郷にあっせんしたものであろうと思われます。 そして、こののち、勝海舟の意思を継いだような形で、 坂本龍馬が、本格的にその活動を始めることになるのです。

続きを読む

このブログでよく読まれている記事

もっと見る

総合記事ランキング

もっと見る