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テーマ:スポーツあれこれ(11386)
カテゴリ:おっぺけぺー
世界体操選手権のことが、ニュースで扱われてましたですねえ。
日本男子は団体で3位。なにやらまたまた国際ルールが変更されたそうで、長年採用され続けてきた「10点満点」ではなくなったそうですね。 なんでも日本が強くなるとすぐにルールを変えて、五輪開催国などの有利な形にしちまうんだなあ。とはいえ、そういう環境の変化に即ついていけない弱さというのも、競技種目を問わず、いかにも「ニッポン、チャ×3」ってな風情が漂ってて泣かせるぜ。 と、瑣末なことをうだうだ云ってる僕は実は、高校時代体操を少しばかりかじっていたのです。つっても、あんなオリンピックや世界選手権の代表選手みたいな凄いワザなんぞできるわけがなくて、ジャニーズのアイドルグループが歌やダンスの合間によくやってるような回転技より少し高度な技が、今日はできたのできないのと云って騒いでるような、比較的のどかな部活動生活でした。 実際、ウチの高校の同期に、欽ちゃんのTV番組専属の「アイドル」がいて、そいつがときどきバック転の練習などをやりに昼休みにひょっこりやってきて、一緒に「秘密の特訓」をしたりしてました。 それでも日々の練習は、それまで器械体操の経験が全くない僕達にとってはかなり厳しくて、毎日のように手の皮がむけ、激しい筋肉疲労や肉離れ、打撲に捻挫といった日常に、ヒーヒー云っていた。 もともと高所恐怖症だったのだが、それ以上に懸垂だの吊り輪や平行棒上の倒立といった練習がキツくて、必死でもがいてるうちに、いつの間にか高いところはさして苦手ではなくなっていた。そんな日々でした。 結局、2年生の終わりで辞めちゃったんだけど、自分なりに全力でスポーツに取り組んだ最後の時代でした。 今同じことをやれと云われても絶対できない。どの道「全力で」というのはムリなわけで。 さて、同じ体操部にいた仲間で、オバラくん(仮名)という大男がおりました。 オバラくんは体操部員にもかかわらず、全体的に小粒ぞろいの我が高校にあって身長175cm体重73kg。 クラスは別でしたけれど、全学年中でも巨漢の部類の1人でした。なんてったって、柔道部の一番デカい男よりデカい。もっとも柔道部のほうが小兵揃いだったというのはありましたが。 なので入部早々、オバラくんと、やはり体格的にデカすぎるといわれていた僕(171cm67kg)の2人は、たまに顔を出す顧問の先生から厳しい減量を云いわたされた。 「60kg以上ある人間に、先々技なんか教えてやったらアキレス腱を絶対切るから教えてやらん!」 と、かつては国体で入賞経験もあるというその先生は云いました。 「あと身長が高いヤツは、空中に飛んだときにどうしても低く見えるから不利なのだ。こればっかりは重力と視覚にはどうしても逆らえんからな。車輪やってもつま先が地面についたりとかな。ぐだぐだぐだ」 と、身長160cmなさそうなその先生は、あんまりそんなこと話しても意味のないような、そのくせ僕達がネガティヴな気持ちになりそうなことばかりぐだぐだ並べたてました。 けれど、基本的に部活はあんまり熱心じゃない人らしく、定時が終わるといつも先に帰宅してしまうので、いろんなワザの殆どは先輩から教えてもらってました。 とはいえ、先生のいうことも満更外れているわけでもなく、身体が重いと練習も厳しい。一念発起した僕は、集中的に減量にアタックしてみることにして、微妙に毎食のゴハンを減らしてみたり、ボクサーの減量を真似て水を飲むのをひかえてみたり、塩分を極力摂らないようにしてみたりしては、体調を崩したり集中力を失ったりしていました。 ところが、オバラくんはそういうことをやるそぶりも見せない。 ある日僕は、部室で特大の弁当を食っているオバラに、なんで? と聞きました。 彼の弁当箱は2つに分かれており、一方の箱にはご飯が2合ぶんほどぎっしり詰め込まれ、もう一方のおかずの箱には、当時流行っていた皮なしウインナー10本強と、卵焼きと野菜の煮物が鬼のように入っていた。いってみれば、ボリュームだけなら運動会や花見の家族分の弁当となんら遜色ない。 やや飢餓状態でイラついていた僕は、無意識のうちにウインナーを1本奪ってほおばりながら尋ねました。 「あさって、保健室で計量して結果を報告しないといけないってのに、この現状はやばいだろう」 「ボクの肉を勝手に食べるなよ。そんなことやらなくたってボクは今の体重を保つ努力ぐらいやってるよ」 とオバラは、おかずの箱を奪い返しながら答えました。 「だいいち、これ以上何も食わないもん、体重だって増えるわけないじゃん」 彼の答えは一見的を得ているような気もするのですが、どうも根本的に話がずれているような気がする。 そもそも顧問の教師からの命令は「減量」だったはずで「現状維持」ではない。 「モリスエだって、世界チャンピオンのビロゼルチェフだって体重70kg以上あるんだよ。問題ないって」 ビロゼルチェフというのは当時、ソ連(現ロシアかベラルーシか)から彗星のごとく現れて世界を制した若き天才体操選手だったのですが、そんなのと自分を一緒にしちゃうところが彼のスケールのでかいところ。 「まっ、計量が終わった後で、先生にはテキトーに云っとけばいいんじゃん?」と、オバラくんは陽気に僕に云うのでした。 そして計量当日、なんとその顧問の先生は研修日だとかで学校を休みやがった(笑)。 おまけにその後も、部活の時間滅多に僕達の前に顔を見せることがなかった。終始楽観主義者のオバラの完勝でした。 そんなオバラくんは、元来身体の固い僕と違って柔軟性にすぐれ、物怖じしない太っ腹な性格から、割とソツなくけっこう難しい技を次々と身につけていき、やがてレギュラーにも選ばれるまでになりました。いっぽう基本的に臆病者な上、必死に努力しないと練習についていけない僕は、次第に彼に遅れをとるようになり、結局やる気を失って辞めてしまうのですが、それはもう少し後の話。 我々の高校は、1時間目の始業が8時半とずいぶん早めの開始時刻だったので、朝悠長にTVなど見ていられない高校生活だったのです。 ところが、学校から徒歩3分ほどの場所に住んでいたオバラは、さらにそこから自転車で通っていた。 毎朝「おしん」を見てから登校してるけど無遅刻無欠席だぜ、と自慢げに話すのを見て、こやつは体操以外にも離れ業をやってるんだなあ、と、毎朝8時前には家を出なきゃ間に合わない僕は思いました。 「でも『おしん』は8時半に終わるんだろう? それから出たら遅刻じゃないかよ」 「コツがあるんだ。朝、起きたらすぐに学ランを羽織ってからメシを食う前に自転車のカギを開けるだろう。それから飯食べながら、8時25分まで『おしん』を見るんだよ。25分になった瞬間にドアに手をかけてれば余裕だね。10分見ればその日の話の流れはだいたいわかるから、それでボクは満足なんだ。そのあと急展開があったときは母さんが教えてくれるしネ」 と、オバラくんがなんのてらいもなく僕の質問に事細かく解説してくれるのを聞いて、笑っちゃうのでした。 まだビデオが一般家庭にあまり普及してなかった時代のこと。 オバラくんの面白思い出話は、思い起こせばもっといろいろあるのですが、今日はこのへんで。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
October 19, 2006 12:21:16 PM
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