1320666 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

遊裕動脈

遊裕動脈

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

Keyword Search

▼キーワード検索

Calendar

Archives

2024年11月
2024年10月
2024年09月
2024年08月
2024年07月
2024年06月
2024年05月
2024年04月
2024年03月
2024年02月

Freepage List

Free Space

設定されていません。
2013年07月23日
XML
カテゴリ:
「積小為大(せきしょういだい)」
(小を積みて大と為す)
二宮尊徳(金次郎)

ninomiya.jpg

今日は、二宮金治郎こと二宮尊徳226回目の誕生日。

積小為大は尊徳の代名詞的な言葉で、小さな事の積み重ねが、
結果的に大きな事を成す。

また、小さなことを務められない人には大きな事は成す事が
できないという戒めもこもっています。


相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山(かやま))
に百姓・利右衛門の長男として生まれる。当時の栢山村は小田原
藩領であった。金治郎が5歳の時の寛政3年(1791年)8月5日、
南関東を襲った暴風で付近を流れる酒匂川の坂口の堤が決壊し、
金次郎の住む東栢山一帯が濁流に押し流されてしまった。その
影響で田畑は砂礫と化し、父・利右衛門の田畑も流失した。

14歳で父・利右衛門が死去、2年後には母・よしも亡くなり、
尊徳は伯父・二宮万兵衛の家に身を寄せることとなった。伯父の
家で農業に励むかたわら、荒地を復興させ、また僅かに残った
田畑を小作に出すなどして収入の増加を図り、20歳で生家の
再興に成功する。この頃までに、身長が6尺(約180センチ強)
を超えていたという伝承もある。 また体重は94kgあったと言わ
れている。

生家の再興に成功すると尊徳は地主経営を行いながら自身は
小田原に出て、武家奉公人としても働いた。奉公先の小田原藩
家老・服部家でその才を買われて服部家の財政建て直しを頼まれ、
見事に成功させて小田原藩内で名前が知られるようになる。
その才能を見込まれて、小田原藩主・大久保家の分家であった
旗本・宇津家の知行所であった下野国桜町領(栃木県旧二宮町
周辺(現在の真岡市)、なお同町の町名の由来は二宮尊徳である)
の仕法を任せられる。後に東郷陣屋(同じく真岡市)にあって
天領(真岡代官領)の経営を行い成果を上げる。その方法は報徳
仕法として他の範となる。その後、日光山領の仕法を行う。

安政3年(1856年)下野国今市村(現在の栃木県日光市)の報徳
役所にて没。戒名は,誠明院巧譽報徳中正居士。明治24年(1891年)
11月16日に従四位が追贈されている。
(出典:ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%AE%AE%E5%B0%8A%E5%BE%B3 )


感謝!






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2013年08月20日 13時41分07秒
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.
X