全て
| カテゴリ未分類
| 文楽東京公演
| 文楽大阪公演
| 文楽地方公演
| 文楽の演目 ざっくり解説
| 映画
| 舞踏
| ブルーノート東京
| 大阪プロレス
| 能
| 落語
| 歌舞伎
| 着物
| ファイトオブザリング
| 俺たちプロレス軍団
| 社会人プロレス
| ハンドメイド
| プロレス
| フィールドワーク
カテゴリ:カテゴリ未分類
2012年7月26日(木)於国立文楽劇場(大阪市)
橋下大阪市長が来るというのを聞いたのは、チケットを確保してずっとあとになってのことだった。 天覧公演のときもそう。 ここまで来ると自分は本当に、平成の文楽のいまをつぶさに記録する生き証人として文楽の神さんに呼ばれたような気にもなります。 神さんの期待に応えたいと思います。 当日劇場にいらっしゃれなかったあなたのために、書きます。 開場少し前に劇場に到着すると、文楽劇場正面から少し隠れた木陰に身を潜めるようにMBSテレビの中継車が止まっていた。 舞台を撮影しに来たわけではないことは撮影スタッフの軽装からわかった。 劇場正面に待機する何人かのカメラマンも、文楽を撮りに来たのではないと思うと興ざめするのみだった。 日本のメディアのなかでも最も俗に堕ちているのは、ここ大阪なんだろう。 客席は満員、かつて天皇皇后両陛下がお座りになった10列中央もお客さんで埋まっていたのでさては市長は、ガラス張りの撮影室で隔離かと 見ていた開演5分前、お付きの人々を従えて橋下市長が後方中央扉より現れた。 すると客席3割程度が拍手で迎えるではないか。大阪人はどこまでもお人良し。 私は中腰になって怒鳴ってしまった「なんで拍手なんかするんだ」 横で制止する娘(苦笑) 18列中央通路際に着席した。なるほど脱出しやすい場所だ。 チョーンチョーン ほどなくして拍子木が鳴り盆が回転、文字久大夫清馗が登場 生玉社前の段 文字久大夫は今回二部の伊勢音頭恋寝刃でも病気休演中の師匠住大夫の代役を務めている。 プレッシャーを推察するに憤懣やるかたない思いが込み上げてきた。 だが 「立ち迷ふ」 朗々としてきらきらしい語りだしが響き渡った瞬間 橋下の存在は、文楽劇場の聴衆から消えた。 文字久大夫の芸は素直さから不器用に思われることもしばしば感じられるのだが今夜の名演で三ノ切を語る実力を着実につけてきていると確信した。 それから こんなことを書くとセンチメンタリズムよと馬鹿にされるだろうが、今夜の文字久には住大夫が共に在ったと、私には思えてならなかった。 住大夫が彼の背中を押して舞台に送り 傍らで共にお初の心情を言葉に乗せて 客席の市長に訴えかけていたと。 伝わるまいぞ、あはれなり 若い清馗も不安なく堂々たる安定した奏演で素晴らしかった。 天満屋の段 「待ってました」 通常VIPがご来場の折には遠慮するぞめきだが今夜VIPはお見えでないから遠慮会釈ない威勢の良い掛け声と、大拍手が源大夫藤蔵を迎える。 口上は頭巾のかぶり方が特徴的なので文昇だったと思われる(間違っていたら失礼)。 勘禄をほうふつとさせる見事な口上は間合いもうまく絶妙だった。 畳み掛けるような掛け声に客席が呼応する。 拍手が源大夫と藤蔵を包み込む。 源大夫節、天才的な節回しに魅了される。源大夫の語りを聞いていると、ただ大音量でがなりたてれば良いというものではないのだということがよくわかる。 藤蔵の多少手強さが立ちすぎる三味線も今夜は抑えが効いており父の美声を引き立てていた。 文楽の大夫の芸で風を気に掛ける贔屓も少なくなっているようだが、鑑賞後に演出家に用意された台本通りににわか知識をひけらかし恥の上塗りをした市長にせめておっしゃるとおりの「本気で文楽を考えている」心根があったなら、使い古された感のある人形の出遣いについて古い文献をそのまま引いてきた原稿を丸暗記しどや顔で披露して無知を露わにすることなくこの源大夫藤蔵の華やかな西風の芸について一言でも触れたろうと思うのだ。 それで気が付いたのだ。 橋下さんは自分の言葉で発言しているのかと。 この人はすべて、あらかじめ用意された原稿を丸暗記しておいて、テレビカメラの前であたかも自分の意見のように演技をしているだけだ。彼は鑑賞後に二度目の文楽鑑賞にして偉そうに「演出が古い」などとぬかしていたが私には演出家の古臭いプロデュースでバレバレのパフォーマンスを披露して失笑を買っているのはほかならない橋下さんのように思えてならないのだ。 毎日新聞は「橋下市長が文楽に苦言」などと見出しをつけていたが二度しか見ていない古典芸能に知ったようにものを言う市長にこそ苦言を呈するべきではないのか。これもまたいまのメディアの知的レベルの低下を如実に物語っているお情けない証拠物件というわけだ。 痛快だったのは、天神森の段 ずらりと床に並んだ三味線陣の視線の先には橋下市長がお座りになっていた。 清治の一瞬たりとも視線をそらさずクールに市長を見据えながら若手を率いる頼もしさ 若手の大夫もハラにかかって緊張感を詰めていく そこへ人形が出遣いで登場し客席はいやおうなく盛り上がり拍手喝采で、お初と徳兵衛を迎えた。 これを鑑賞後に市長は淡々と「人間国宝の人だけがどうして顔をだすのか」と言ったのだ。 ちなみに勘十郎はまだ人間国宝ではない(苦笑)。なおかつ聴衆の盛り上がりをよそにこれを「演出が悪い」と評したのは、明らかに違和感がありすぎる。つまりこの点が、私が、彼の発言があらかじめ用意された原稿の棒読みでないかとひっかかる疑惑のひとつである。 少なくとも私がこれまで見てきた天神森の段のなかでも非の打ちどころのない出色の出来栄えだった。 これを批判する人は、文楽のなんたるかがわからないよりも、大阪人の魂を持ち得ていない朴念仁だと言わせていただいて差支えないと思う。 初演以来数えきれないくらい上演を重ね昭和30年に新たに脚色、作曲され復活した本作品を昨年原曲に忠実に戻す形で上演する試みもなされたが、言葉などたとえば「とくびょうえ」といまさら戻すのはどうかというような賛否もあり評価は分かれた。 こうしたいきさつも橋下市長の演出家は把握せぬまま、おそらく数多くの劇評から切り張りして引用しても、気づかれまいと思ったのだろうが、会見から昨日までの一連のツイートに至るまですべてが、他人の批評の焼き直し、出展がまるわかりであったことを橋下信者の皆さんに申し添えておく。 知らないなら知らないと素直に言って学ぶ姿勢を示せば済む話ではないか。 私も文楽を本当に知ったばかりのころ、恩師に知ったかぶりは一番恥ずかしいことですと、釘を刺され、それから先人を敬い学ぶ姿勢を大切に心に留めて今日も日々勉強させていただいている。 謙虚さのない人の言葉は誠実さを欠き真実が見えない。 橋下徹は残念な人だ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2012/07/28 07:21:12 PM
|