人生の苦しみは、神に見放された証拠か
人生の苦しみ、人生で起こる困難、人生で起こる「嵐」とは、神に見放された証拠であるのだろうか。神に見捨てられた。だから、このような「困難」や「苦しみ」が人生で起こるのであろうか。神を信じていれば人生順調という哲学は聖書からかけ離れている。ハッピー・メンタリティー。神は、そのように動かれないことを今日は見ていきたい。正しく神を理解するため。正しく人生を見ることができるため。まずはじめに、不幸や困難が人生に起こると、「神は私を見放された」と考えることは「普通」であることが聖書を見るとわかる。それは弱い人間にとっての「ごく普通の反応」である。話は旧約聖書の時代に戻る。イスラエルの民は、神の目の前に悪を行った。そのため、神から裁きが下った。神は、イスラエルの民を7年もの間ミデヤン人という敵の手に渡されたのだ。自分の人生で7年もの間苦しみを味わったとすればどうであろうか。主は、ギデオン(イスラエルの民)という者に現れた。神の使いはギデオンに言った。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」旧約聖書 士師記 6:12この声を聞いたギデオンは、7年の苦しみの中でこう答えた。「ああ、主よ。もし主が私たちといっしょにおられるなら、なぜこれらのことがみな、私たちに起こったのでしょうか。私たちの先祖たちが、『主は私たちをエジプトから上らせたではないか。』と言って、私たちに話したあの驚くべきみわざはみな、どこにありますか。今、主は私たちを捨てて、ミデヤン人の手に渡されました。」旧約聖書 士師記 6:13ここでのギデオンの主張は3つある。1.もし主が私たちと一緒であれば、こんな苦しみは起こるはずがない。2.もし主が私たちと一緒であれば、主の偉大な御業はどこにあるのか。主の御手が見えない。奇跡がない。3.主は私たちを見捨てた。この困難、苦しみは、主が私たちを「見捨てた」証拠である。神に選ばれし者でさえ、そう考えたのである。私たちの人生でも、そう考えはしないだろうか。もし神が私と共にいるのであれば、こんな苦難が起こるはずがない。もし主が私と一緒にいるのであれば、神の奇跡、神の驚くべき御業はどこにあるのか。私は苦しみの中にある。神は私を見捨てたのだ。自分どころか、周りにいる人々の人生を見て、そう裁きはしないだろうか。「あの人から、神は離れた。あの人の神は、どこにいるのか。」と。ギデオンのこの3つの主張は、正しかったか。ギデオンの判断は、真実であったか。神はそんなギデオンにどう語ったか。「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」旧約聖書 士師記 6:14ここから分かることは、神は、ギデオンを見捨てるどころか、ギデオンを神の救いの右腕として「遣わす」と語った。困難の中にあるイスラエルを見捨てるどころか、神のゴールは、彼らの「救い」であったのだ。裁きとは、以前にも語ったが神の愛ゆえである。裁かなければ、悪は成長する。悪は取り除かれない。子どもが悪をして怒らず、放置していたら悪がエスカレートすることと同じである。しつけが人には必要なのである。悪を取り除くために。その子のためにならないからだ。よって、裁きは愛がその背後に隠されているのである。苦しみや困難は、神に見放された証拠ではなかった。神は、その困難の中でも一緒にいてくださった。そして、主はその言葉通り、イスラエルを救った。このようなことは、新約聖書にも見受けられる。パウロは船でイタリヤ・ローマに行こうとしていた。しかし、出帆したものの、航路は険しかった。パウロは囚人として他の囚人たちと船に乗っていたがこの時ばかりはものを申した。パウロは季節的に航海はたいへん危険であると知っていたため出港はしないほうがいいと皆に促した。しかし、パウロの言葉よりも、航海士や船長や、なんと船の大多数の人々がパウロに反対をして、出帆を決めた。パウロには、味方がいなかった。そして、船は出た。はじめ、船旅は穏やかであった。しかし、暴風が吹き始め、次第に船はコントロールを失い流されるがままになった。それでも船は激しく暴風に吹き流された。いよいよ危険を感じ、積荷を人々は捨て始めた。最後には、自分の船具までも投げ捨てた。それでも、暴風は止まず、積荷も船具も失った人々はいよいよ「助かる」という希望まで投げ捨てた。パウロは彼らに言った。「皆さん。あなたがたは私の忠告を聞き入れて、クレテを出帆しなかったら、こんな危害や損失をこうむらなくて済んだのです。」新約聖書 使徒の働き 27:21(人は、人数が多ければそちらが「正しい」と判断しがちですが、決してそうではないことがここからも分かります。私たちが、何を「正しい」と信じるかもそれと同じではないだろうか。多くの人間が「正しくない」と言うからと言って、決してそれが本当に「正しくない」わけではないのだ。たったひとりが「正しい」ということが、他の人全員が反対しようも、「正しい」場合があるのだ。ただ「人数が多い」だけで「正しい」と決めつけないようにしよう。)しかし、このあとパウロは人々に「元気を出しなさい」と言って、励まします。そして、誰一人死ぬことはないということを伝えました。しかし、水夫たちは勝手に船から逃げようとして、小舟を用意したので、パウロはこう言った。「あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたも助かりません。」新約聖書 使徒の働き 27:31そこで小舟を断ち切った。そして嵐の中、船が流されるままにまかせた。しかし、船は完全に壊れ始めた。そして、動かなくなり、破れ始めた。かなりの危機である。すると、飛び込んで泳ぎ、船の板切れにつかまり最後には一人残らず、全員が助かった。そして、マルタという島に彼らは着いた。パウロ以外の「誤った判断」によりとんだ嵐となったが、神は、この中にもおられた。神は、「救う」とパウロに約束された通りに全員を救いだした。そして、ふと到着した島でパウロは奇跡をキリストの名によっておこなった。そして、パウロが再び船出するときには、この島の人々は、パウロの必要な品々を用意した。パウロに感謝を現わしたのだ。嵐が起ころうと、神は離れていなかった。それどころか、ちゃんと最終目的地ローマまで神はパウロを連れて行って下さった。その途中、パウロを通してマルタの人々はキリストに出会った。人々の判断ミスでさえ益と神はしてくださった。嵐の中でも、救いを神は約束され神は言葉通り、全員を救われた。そして、目的地まで連れて行って下さった。目先のことしか見えない人間にとって嵐や困難に遭遇するとこの船に乗っていた人々のように希望さえも投げ捨ててしまいそうになることがある。しかし、パウロはキリストのように彼らを励ました。ですから、皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると私は神によって信じています。新約聖書 使徒の働き 27:25私たちは、「逃げ」の小舟を出そうとするがどんな嵐の中にあろうとも神の船にとどまろうではありませんか。救われるためです。神は、困難の先をいつも見据えておられます。そして、救い、祝福を約束してくださっています。そして、嵐の中にあろうとも困難や苦しみの中にあろうとも神の良い御心の真っ只中にあることは可能なのです。苦しみ・困難=神が見捨てたと落ち込まなくてよいのです。どんなミスでも神の救いから出ることはないのです。どんなサイズの嵐にあっても神は、最終目的地までちゃんと連れて行って下さるのです。ですから、どんな苦しみにあったとしても、皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられた通りになると私はかみによって信じています。神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。ローマ人への手紙 8:28この夏、ネットで聖書を学ぼう! 無料お試し講座はこちらから