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コラム|メンタルボディケア【hashimoto.biz】ハシモトビズ

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カテゴリ:心理学考察
さて、うまい生き方三部作の最終回です。
「傾聴」「共感」と来ましたが、
最後は「無条件の肯定」です。

カウンセリングを勉強していると「ロジャース」という人を
通ることは必至かと思いますが、今の三つはこのロジャース
が言った「カウンセラーの必要充分条件」ってヤツなんです。
それ以外にも「一致」ってのも上がってますが。

気をつけなければいけないのは「この条件が揃えば誰でも
カウンセリングできますよ」というニュアンスのことを
言っていると捉えられることです。

なので、日本のカウンセリング界では「ロジェリアン」なんて
言葉があります。「一致・傾聴・共感・肯定」をカウンセリング
の目的と勘違いしている人たちを指してこう呼ばれます。

ロジャースの言うカウンセリングとは、この必要充分条件に
よってもたらされるものがクライエントの変容につながると
言っているようです。ここポイントです。


さてさて、「うまい生き方」に活かせるカウンセリング技法
っていうことで、この記事は綴っているわけですが、
今回は「無条件の肯定的配慮」ということで一区切りです。


カウンセリングでいうところの「無条件の肯定的配慮」というのは
かなり噛み砕いて言ってしまうと、「クライエントの話しになんの
善悪の判断も持たずに、そのクライエントの価値観から見た世界を
そのまま、できるだけ同じ目線、同じ価値観で見てみる」っていう
ことになるでしょうか。

ポイントだけ抜粋してしまえば(これはかなり危険な行為ですが)
相手を肯定的に見る(否定しない)、善悪のジャッジをしないで
聴くってことになるでしょうか。

僕なんかがそんなカウンセリングの大家の理論のエッセンスだけを
話すというのは大それたことですが、それを学んだ僕としての見解
としてはそういうことっていうことです。


ではもっと噛み砕いてみましょう。

普段の生活で「共感的に傾聴する」っていうところまでは話して
みましたが、これだけでは足りないんですね。

「やってみましたけど、どうしてもストレスがたまりました」
なんていうご意見もありました。

そりゃそうなんですよね。ごめんなさい。
だって、「共感的に傾聴」したら気持ちいいのは相手だけなんですから。
でもそれだけでも、相手には好印象を与えることができるでしょう♪

普段の生活にカウンセリング技法を生かすというのは
こう考えてくると結構難しそうですよね。
でも最後のエッセンスがあるんです。

それが「肯定的配慮」

「相手を否定しなければ(肯定すれば)いいの?」
「自分の価値観を出さないってこと?」

っていうところに入ると迷宮入りしちゃいますね。
それはカウンセラーの仕事です♪


ではこの「肯定的配慮」を普段の生活に生かすには
どうすればいいんでしょうか?


普通に人と話しをしているときというのは、自然と
自分の価値観を持ってその話を理解しています。
だから話し手がいいたいことが伝わらなかったり、
自分がいいたいこととは別の方向に話しが行ったり
するんですね。

自分が話しをしていて、相手が自分の話の中のどこかで
のってきて、全然違う方向に話しがいっちゃうことなんて
普通にありますよね。

それだけ人は「自分に都合のいいように」他人の話を
聞いているもんなんです。

でもそこで、「共感的に傾聴」したらどうなるでしょう?
相手の話に「沿って」あげることになるんですね。
しかも傾聴してますから、相手が言いたいことの最後まで
聞いてあげられるわけですね。

相手がすっきりするまで話してから自分のいいたいことを
言うというクセがついてくると、自然とコミュニケーションの
ストレスは解かれていくはずです。


でもなぜ「肯定的配慮」が必要になるのか?

人の話をしっかりと聴くことというのは、「カウンセリング」
ということが仕事になるほど、実は大変なことなんです。

相手が話しているときにこちら側は「待って」いるわけですから。

もっといえば「言いたいことがどんどん出てきているのに我慢している」
わけです。これではストレスがたまるのも当然ですよね。

では「肯定的配慮」が入るとどうなるでしょう?


「肯定的配慮」というと「相手を肯定的に見なければいけない」
みたいな雰囲気を感じますが、それはカウンセラーの仕事の
場合です。

僕が考える“普段の生活に生かすための”「肯定的配慮」
というのは「そうだよね」とか「そういう考え方あるよね」とか
「あなたはそう考えるんだ」とワンテンポ置くことです。

つまり自分に置き換えないで聞くってことです。
もっというと、「相手の話や考え方を自分とは切り離して聞く」
と言うこともできるでしょうか。

つまり少し距離が離れます。
話を一生懸命聞いてしまうと以外と疲れます。
一生懸命聞いていると自分の言いたいことがどんどん出てきます。
これを我慢するのもストレスがたまります。
「肯定的配慮」をアレンジして「距離を離す」としましたが、
これでストレスなく楽に「傾聴・共感」ができるのでは
ないでしょうか?


普段の生活の中にカウンセリング技法を生かすには、
我慢しない工夫が必要だと僕は考えます。
本格的に生かすにはやはりトレーニングが必要です。

それを必要とせず、利用していくならばムリがないことが第一。

自分とある程度距離を作った状態で相手に自由に話させてあげる。
そこで共感的に話しに沿ってあげる。そして最後まで話させて
あげる。特にまじめな話しをするときに意識してみると、
今までとは違ったコミュニケーションが取れるはずです。


この「肯定的配慮」というのがなぜ必要かももうお分かりでしょうか?

ここではかなり噛み砕いてみましたから、噛み砕きすぎて
原型が残っているかわからなくなってしまっていますが、
ポイントは「適度な距離」ってヤツです。

「入り過ぎ」や「離れ過ぎ」はいずれにせよ、似たような結果を
招きます。

相手の話に自分の価値観を持ったまま「入り過ぎ」て相手の
話したいこととは別の話しを始めてしまうというのが一つ。

相手の話に自分の価値観も持ったまま「入り過ぎ」て自分の
言いたいことを我慢するのも一つ。

逆に相手の話から気持ちが「離れ過ぎ」て、相手が話していて
手ごたえがなくてつまらないというのも一つ。


じゃあどうすればいいの!?っていうところに迷い込みがち
ですが、「適度な距離」の答えは今までの三つの話をまとめると
見えてきます。

「肯定的配慮」で適度に離れることにより、相手が自由に話すことができ、
「傾聴」することで、相手の流れを乱すことなく、
「共感」するという形で相手に触れる。

「傾聴」と「共感」は相手の流れに沿うこと。
つまり相手から離れていないわけです。
そこで「肯定的配慮」である程度距離をとる。

ちょっと難しいですかね?


もしこれを試すならば、相手の話を聞くときにまずは
「相手の話なんだから自分とは関係ないもの」と離しておいて、
「へぇ、そうなんだ」とポイントポイントで触れてみるという
距離のとり方もありますね。

ホントに共感や同感を感じたならば、それを態度で示せばいい
わけです。とてもいい会話になることでしょう。


ま、なんでも万能なことはないわけですから、「これをやれば大丈夫!」
なんて言いませんけど、「なんかうまくいかないなー」なんて
いうときがあったら、その嫌な流れを変えるために試すというような、
一つの方法として使ってみる価値はあるのではないでしょうか?


でも気をつけてください。一つだけ間違ってはいけないのは、
「常にこれらをやる」ことです。

僕もカウンセリングの勉強の中で陥ったのですが、
相手の話を常に優先し、じっと話を聞き、自分の価値観を
押さえ込んでいると、なんだか「真っ白」になりました。
なんだか自分がいるんだかいないんだかわからなくなって
しまった感じです。
やっぱり自分の好きなように生きることもとても大事です。

やりすぎると自分がなくなってきちゃうのかもしれませんね。
これは「合理化」といいますが、「相手に話させてあげるのが
OK、そのために自分は我慢するのもOK」と言う風に強化が
起こって、自分のアイデンティティを大事にしないという事態に
陥るわけです。


相手の話を聞きながら、例え相手の話を遮ろうとも、主張するのも
自分の個性なわけです。個性とはつまりアイデンティティ。
その人なりってことですね。

人ってのは個性がないと相手から認識されないわけです。
これは寂しいことかもしれません。
僕の場合、自分で自分がわからなくなっちゃいましたからね。

難しいです、やっぱり人間関係というのは。


余談?かもしれませんが、カウンセリングの考え方は
仏教でも同じことを言っていることが多々あります。

今回は「肯定的配慮」で、その応用として「適度に離れる」と
いうように噛み砕きましたが、これは仏教でも同じことを
表現しているものがあります。

それは千手観音像。

千手観音の前に出ている合掌している両手がそれを物語っています。

試しに合掌してみてください。





両手を開いて、ぴったりくっつけますよね?

千手観音が前に出している合掌の手では、この両手は
くっついていないんです。
微妙に空間が開いているんです。

(木でできているから、ゆがみなんかで離れたのでは?
なんてふと思いましたが、くっつけようと思えばくっつけた
まま彫ればいいわけですよね♪わざと離すように彫ったわけ
ですね!)

また、座禅のポーズなんかでもそうなんですが、
人差し指と親指でリングを作って、あとの指は伸ばしている
手の形がありますよね?

あの人差し指と親指も実はくっつけないんです。


千手観音の話は先日講演を聴いてきた「大須賀先生と繁田先生の対談」で
出ていた話題だったのですが、大須賀先生はこれを

「適度に間が開いているのが大事。びったしくっついていては
どちらかが倒れたときに支えられない」

とおっしゃっていました。


この「適度な間」これがコミュニケーションの極意なのかも
しれません。くっついたり離れたりっていうのが普通の人間関係
かとは思いますが、「適度な距離」、これを意識できるように
なることが「うまい生き方」に近づくことのような気もします。

それを成すための一つの手段として「傾聴・共感・肯定」の
三つを一つの切り口にしてみるのは意味があるかもしれませんね。


さて、長い三部作になりましたね。
いかがでしたでしょうか?





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Last updated  2008.03.25 00:03:09
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