愛の衣を着せて子どもを見る現実の子どもは、天使ではありません。人間的に未成熟ということは、道徳的にも、感情的にも、 親や大人の神経を掻きむしるものがあるということです。 では、その欠点を指摘して、矯正してやれば良いのでしょうか? いや、私は、欠点に注目することには反対です。 人間の脳みそは、意識したことを実現してしまう、不思議な自動達成装置がセットされているようです。 そして、これは、個人の内に収まらずに、周囲の人との間にも、潜在意識を通じて、達成されてしまうもののようです。 よく使われる有名な話ですが、同じ学力・活動力の2つの学生グループを、何も知らない先生方に、一方は、優秀で将来を嘱望されている人材たちだと教え、あるグループは、問題行動を注意しないと何をしでかすかわからぬ赤丸グループだとささやきます。 そうすると、ほとんど100%そのグループには、現実にそのような差が開いてしまい、教師たちは、アドバイスが的確だったと、さらに納得してしまうのです。 でも、現実に欠点ばかりの子を、どうやって「良く」、見たら良いのでしょう。現実に目をつぶってしまうのでしょうか? ここで、私たち大人の自分の欠点について、考えてみましょう。 自分をどう思っているか、は人それぞれですが、誠実に考える人こそ、自分の欠点に愕然としているのではないでしょうか? 何を隠そう、私も、本来なら、この世に生まれなかった方が良かったのではないか、と思うことがしばしばです。 もし、完全な正義や道徳が求められたら、私は真っ先に命を塗りつぶされ、呪われた地獄に落とされています。 しかし、今、こうして生きてご飯もたべていられるのは、家族をはじめ人々の暖かい眼差しによるものです。いわゆる「お恵み」です。 立派な生活をされておられる方には、ピンとこないかもしれませんが、自分の能力一本で、誰にも指をさされることなく、生活している、と思っているのでしたら、それは、とんでもない思い違いです。 小学生の環境教育の理念である相互依存の考え方を持ち出すまでもなく、自分の心臓の鼓動さえ、自分で動かしていると考えるのはおこがましいことから、明白です。私たちは60兆の細胞一つ一つの連合体であり、また、小さいとき、おむつを取り替えてもらった存在です。そして、人を傷つけないで成長した人っているでしょうか? 親も教師も、天と人の「恵み」によって生きてこられたのです。 この意識は、自分にどうしようもない欠陥があったり、障害がある人ほど敏感なのでしょう。 人間は恩恵を与え、与えられて、生きている存在です。 正義・聖さと言えば、完璧な存在は、神さましかありません。 聖書に、注目すべき言葉を発見しました。 「それから、神は私たちをご自身の目に聖い者、一つの欠点のない者にしようと決意されました」(エペソ1:4 リビングバイブル) ちょっと待ってください。神は誰を聖い者にしようとしておられるのでしょう。神が聖くされた誰かをあなたはご存知ですか?クリスチャンは聖い? クリスチャン自身が「ノー」と言うでしょう。 神はご自分の計画を実行することに失敗してしまっているのでしょうか? 「…一つの欠点もない者に」 神が人を一つの欠点もない者にしようと心に決めておられながら、私たちの知る限りすべての人を見るとき、神がこんなにも惨めに失敗しておられるということがあり得るのでしょうか? もう一度、聖書の言葉をよく読んでみましょう。 「ご自身の目に…」 神は私たちを「ご自身の目に」聖く欠点なき者とされたのです。 神は「神の目で」私たちを見てくださるのです。私たちとは違った風に見てくださるのです。 神は神ですから、自分の思うように対象を見ることができるのです。自分で自分を見ると、とんでもない汚い者です。しかし、神は私を違った風に見ていてくださるのです。 この感嘆すべき、見方を、神はどのようにしてすることができるのでしょう? 神にはウソ・偽りはできないはずです。 パウロは言います。 「神の愛におおわれて神の前に立つ私たち…」(エペソ1:4リビングバイブル) 何と、愛の毛布です。神は愛の毛布で私たちをすっぽり包み、それから後ろにさがって見てくださるのです。そして、神は何を見られるのでしょうか。そうです。ご自身の愛を見られるのです! 人は裸の私を見ます。あなたも自分を見ます。しかし、神はご自身の愛を見られるのです。 なぜ?本当になぜでしょうか? 「神はそう願われたから、そうされたのです。」(エペソ1:5リビングバイブル)パウロは事も無げにそのように言っています。 神はご自分の愛の毛布で私たちを包みたいと願われたのです。 なぜ、神はこうしようと決められたのでしょうか? これが、この宇宙の目的を成就させる唯一の方法であると判断したからではないでしょうか? もし、この宇宙がそのような仕組みで設計されているなら、子どもたちを見る見方も、裸の子どもたちを直接見るのではなく、親や教師・地域の人々の愛の毛布で包んで、見るべきです。 で、結局、子どもを通じて、自分自身の愛の姿を見るのです。 どうしても、自分では毛布をかけられない手強い子どもがいたならば、自分の愛ではなくて、神様の愛の毛布をイメージして、それをながめましょう。 ジャンル別一覧
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