日本平家物語協会

『延慶本　平家物語』原文版　巻九　三十の１０
ナヲアキダラズ思食バ、御サマヲモ替サセ給テ、
イカナラム山寺ニモ閉籠ラセ給テ、閑ニ仏ノ御名ヲモ唱テ、故殿ノ
Ｐ３１７５（八八オ）
御菩提ヲモ訪マイラセ、我御身ノ後生ヲモ助ラセ給ワムニ過タル善
知識ハ争カ候ベキ。其上都ニ渡セ給人々ノ御事ナドヲバ、誰ニユヅリ、
イカニナラセ給ヘトテ、カクハ思食立ニカ。ワラワモ老タル親ニモ立離レ、
幼キ子モモ振捨テ、只一人付マヒラセタル甲斐モ候ワズ。ウキ目ヲ
ミセムト思食ラムコソ口惜ケレ」ナドカキクドキ、サマ＜”ニナグサメ申
ケレバ、「懐妊ノ身トナリテハ、死ヲサル事遠カラズナド云ナレバ、カヤウニ
浪ノ上ニテアカシクラセバ、思カケヌ波風ニ逢テ、心ナラズ身ヲ徒ニ
ナスタメシモ有ゾカシ。縦今度ヲ思延タリトモ、此者ヲソダテヽ打ミ
ムヲリ／＼ハ、昔ノ人ノミコヒシクテ、思ノ数ハマサルトモ、ワスルヽ時ハヨモ
アラジ。今ハナカ＜ニ見ソメミヘソメシ雲ノ上ノヨハノ契サヘクヤシクテ、
Ｐ３１７６（八八ウ）
彼ノ源氏ノ大将ノ朧月夜ノ内侍ノカミ、紅徽殿ノホソ殿モ、我
身ノ上トオボユルゾ」トヒソカニ宣ケレバ、此四五日ハ、ハカ＜”シク湯水ヲ
ダニモ見入給ワヌ人ノ、カヤウニコマ＜”ト宣ヘバ、「ゲニ思立給事モヤ」トテ、
「大方ハゲニモサコソハ思食ラメナレバ、イカナラム海川ノ底ヘ入セ給トモ、ヲ
クレマヒラスマジキゾ。カマヘテウキ目ミセサセ給ナヨ」ト、涙モカキアヘズ
申ケレバ、「此事サトラレテ妨ラレナムズ」トヤオボシケム、「是ハソレノ
身ノ上ニ思ナシテモヲシハカリ給ヘ。別ノ道ノ悲サ、大方世ノウラメシ
サニ身ヲモ投バヤト云事ハ、世ノ常ノ事ゾカシ。