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2012.10.31
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カテゴリ:歴史
ドラマ三国志を見たり読んだりして不思議なのはあんなに熱心にまた偉そうなことを述べながら建国したのにいったんは晋として統一王朝ができたにもかかわらず五胡十六国時代という乱世になって中国が一層ばらばらになってしまったことです。
確かに司馬炎以後の君主が悪かったといえばそうなんですが周辺民族の圧迫もしくは流入になすすべがなかったのは不思議でした。
それでふと人口はどうだったかと見てみると案の定派手な変化があったようです。中国人口の歴史というサイトがあって加藤徹先生という大学の先生が書いているので一応確実性のあるデータとして取り上げてみます。
それによると後漢時代には約6000万人ぐらいの人口があったらしい。それが三国時代の戸籍登録人口によると蜀が940,000人(西暦263年)魏が4,432,881人(西暦263年)、呉が2,300,000人(西暦280年)となって1000万人にもとどかない。もっとも戦乱の時代のあとですので確実なデータではないかもしれませんが人口が激減したのは確かなようです。
蜀が魏に勝てなかったのも道理で人口が魏の4分の1以下では戦争の人材がいなかったのもわかるような気がします。
そして晋の時代になると1600万人(西暦280年)とやや回復しますが後漢の時代の人口には遠くおよびません。
ということは大雑把に言って4000万人分の空きができたといってもいいでしょうかね。周辺部族が生活のしやすそうな中国に殺到してきたのでしょうか。そういうわけで五胡十六国の混乱の時代になるわけです。
そしてやっと統一された隋の時代の戸籍登録人口は約4600万人(西暦609年)でこれでもまだ後漢の時代の人口に足りません。350年ぐらいたっても人口が回復していないのですからなにか大災害があったのかもしれません。人口が六分の1程度になってしまったのですから戦争だけではないでしょう。
三国時代後これだけ人口が減ってしまってはいかに晋の王様が名君だったとしても他民族の侵入はふせげなかったかもしれません。ひょっとすると司馬炎が1万人もの女性を宮中に囲ったのも自分の民族を守ろうとする潜在意識のあらわれだったかもしれない。他の民族が流入してくるのを防がなかったのは人口が土地に対して少ないというのをわかっていたのかもしれません。いわゆる大量の移民を黙認したようなものですか。ただそのつけは高く自国の滅亡と共にさまざまな国が興亡する五胡十六国時代になるわけですね。

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Last updated  2012.10.31 19:03:07
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