楽天・日記 by はやし浩司

2009/02/08(日)19:13

●失敗危険度K

育児問題(153)

あんたの教え方ヘタだって、ママが言っていたよ! 先生の悪口は言わない(失敗危険度★★★) ●良好な人間関係が基本  教育もつきつめれば人間関係。それで決まる。教師と生徒との良好な人間関係が、よい教育の基本。この基本なくして、よい教育は望めない。そこで大原則。「子どもの前では、先生の悪口は言わない」。先生を批判したり、あるいは子どもが先生の悪口を言ったときも、それに相槌(づち)を打ってはいけない。打てば打ったで、今度は、「あなたが言った言葉」として、それは先生の耳に入る。必ず、入る。子どもというのはそういうもので、先生の前では決して隠しごとができない。親よりも、園や学校の先生と接している時間のほうが長い。また先生も、この種の会話には敏感に反応する。 ●先生も人間  一方、先生もまた生身の人間。中には聖人のように思っている人もいるかもしれないが、そういうことを期待するほうがおかしい。子どもと接する時間が長いというだけで、先生とてこの文を読んでいるあなたと、どこも違わない。そこでこう考えてみてほしい。もしあなたが教師で、生徒にこう言われたとする。「あんたの教え方ヘタだって、ママが言っていたよ」と。そのときあなたはそれを笑って無視できるだろうか。中には、「あんたの教え方ヘタだから、今度校長先生に言って、先生をかえてもらうとママが言っていた」と言う子どもさえいる。あなたは生徒のそういう言葉に耐えられるだろうか。 ●学校の問題は、先生がいないところ  教育というのは、手をかけようと思えば、どこまでもかけられる。しかし手を抜こうと思うえば、いくらでも抜ける。ここが教育のこわいところでもあるが、それを決めるのが、冒頭にあげた「人間関係」ということになる。実際、やる気を決めるのは、教師自身ではなく、この人間関係である。それを一方で破壊しておいて、「よい教育をせよ」はない。が、それだけではすまない。 ●結局は子どもの損に  あなたが先生の悪口を言ったり、先生を批判したりすると、子ども自身もまた先生に従わなくなる。一度そうなるとそれが悪循環となって、(損とか得とかいう言い方は好きではないが……)、結局は子ども自身が損をすることになる。仮に先生に問題があるとしても、子どもの耳に入らないところで、問題を処理する。子どもが先生の悪口を言ったとしても、「あなたが悪いからでしょ」と言ってのける。これも大原則の一つである。 はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi 学ぶものは山に登るごとし 知識と学力(失敗危険度★★★) ●知識と学力は別  もの知りの人が、賢い人ということにはならない。知識と学力は本来別のものであり、これを混同すると、教育そのものが混乱する。たとえば幼稚園児が掛け算の九九をペラペラと口にしたとしても、その子どもが賢い子どもということにはならない。いわんや算数ができるとか、頭のよい子ということにもならない。が、もしその子どもが、「車が三台では、そのタイヤの数は一二」と、即座に計算できれば、算数のできる子どもということになる。その計算方法を自分で考えだしたとしたら、さらに頭のよい子ということになる。 ●知識教育が教育?  ところがこの日本では、子どもに知識をつけさせることが教育だと思い込んでいる人が多い。教育の体系そのものがそうなっている。たとえば学校でも、「わかったか」「覚えたか」「ではつぎ……」という教え方が基本になっている。アメリカやオーストラリアでは、「どう思う?」「それはいい考えだ」という教え方が基本になっている。また入試内容にしても、学力をためすというよりは、知識をためすものになっている。いろいろな改善策がこころみられてはいるが、基本的にはこの構図は明治以来、変わっていない。 その結果というか、今でこそやや少なくなったが、三〇年前にはどこの進学高校にも、いわゆる頭のおかしい「勉強バカ」というのがいた。勉強しかしない、勉強しかできない、頭の中は成績の数字だけという子どもである。しかしそういう子どもほど、スイスイと一流大学の一流学部(「一流」という言い方は本当にいやだが……)へ進学していった。私は進学塾の講師をしながら、そのときはそのときで、「こんなことでいいのか」と、少なからず疑問に思ったことがある。 ●学ぶことは苦しい  では、学力とは何か。また学力はどうやって養えばよいのか。実はその答はあなた自身が一番よく知っている。あなたが今、三五歳なら三五歳でよい。あなたは二〇歳のときから今までの一五年間で、何かを自ら学ぼうとしたか。あるいは学んだか。何かを発見したとか、何かを新たにできるようになったとか、そういうことでもよい。 そのとき「知識」は除外する。知識は学力ではない。するとたいていの人は、何もないことに気づくはず。もともと学ぶということにはある種の苦痛がともなう。美濃部達吉も「語録」の中で、「学ぶ者は山に登るごとし」と書いている。「学ぶということは楽ではない」と。だからたいていの人は学ぶことを、自ら避けようとする。私やあなたとて例外ではない。学力とはそういうものであり、また学力を養うということはそういう苦痛との戦いでもある。つまりそれだけたいへんだということ。教育のテーマそのものと言ってもよい。ここでもう一度、あなたにとって子どもの教育とは何か、それをじっくりと考えてみてほしい。 はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi 私こそ親のカガミ! 代償的過保護(失敗危険度★★★★★) ●代償的過保護  本来、過保護というのは親の愛がその背景にある。その愛があり、何かの心配ごとが引き金となって、親は子どもを過保護にするようになる。しかしその愛がなく、子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしたいという過保護を、代償的過保護という。いわば自分の心のスキ間をうめるための、過保護もどきの過保護。親のエゴにもとづいた、自分勝手な過保護と思えばよい。  代償的過保護の特徴は、(1)親としての支配意識が強く、(2)子どもを自分の思いどおりにしたいという欲望が強い。そのため(3)心配過剰、過干渉、過関心になりやすい。(4)子どもを人間というよりは、モノとして見る目が強く、子どもが自立して自分から離れていくのを望まないなどがある。そしてそういう愛を、理想的な愛と誤解することが多い。「私こそ、親のカガミ」と言った母親すらいた。 ●子どもを自分の支配下に このタイプの親は、一見子どもを愛しているように見えるが、(また親自身もそう思い込んでいるケースが多いが)、その実、子どもを愛するということがどういうことか、わかっていない。わからないまま、さまざまな手を使って、子どもを自分の支配下に置こうとする。もともとはわがままな性格の人とみてよいが、それゆえにものの考え方がどうしても自己中心的になる。「私は絶対正しい」と思うのはその人の勝手だが、その返す刀で、相手を否定したり、人の話に耳を傾けなくなる。がんこになることも多い。 ●お前には学費が三〇〇〇万円かかった! ある父親は、息子が家を飛び出し、会社へ就職したとき、その会社の社長に電話を入れ、強引にその会社をやめさせてしまった。またある母親は、息子の結婚にことごとく反対し、そのつど結婚話をすべて破談にしてしまった。息子を生涯、ほとんど家の外へ出さなかった母親もいるし、お金で息子をしばった父親もいる。「お前には学費が三〇〇〇万円かかったから、それを返すまで家を出るな」と。 結果的にそうなったとも言えるが、宗教を利用して子どもをしばった親もいた。ことあるごとに、「親を粗末にすると、バチが当たるぞ」と教えている親もいる。そうでない親には信じられないような話だが、実際にはそういう親も少なくない。ひょっとしたら、あなたの周囲にもこのタイプの親がいるかもしれない。いや、あなたという親にも、いろいろな面があり、その中の一部に、この代償的過保護的な部分があるかもしれない。もしそうならそうで、あなたの中のどの部分が代償的過保護であり、あるいはどこから先がそうでないかを、冷静に判断してみるとよい。 ●自分に気づくだけでよい この問題は、どこが代償的過保護的であるかに気がつくだけで、問題のほとんどは解決したとみる。ほとんどの親は、それに気づかないまま、代償的過保護を繰り返す。そしてその結果として、親子の間を大きく断絶させたり、反対に子ども自立できないひ弱な子どもにしたりする。 はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi うちの子は生まれつきそうです! 勉強が苦手な子ども(失敗危険度★★★★★) ●勉強が苦手な子ども  勉強が苦手な子どもといっても、一様ではない。まず第一に、学習能力そのものが劣っている子どもがいる。専門的には、多動型(動きがはげしい)、愚鈍型(ぼんやりしている)、発育不良型(知的な発育そのものが遅れている)などに分けて考える。最近よく話題になる子どもに、学習障害児(LD児)という子どももいる。教えても覚えない。覚えてもすぐ忘れる。覚えても応用がきかない。集中力がつづかず、教えたことがたいへん浅い段階で止まってしまう、など。 ●症状をこじらせない  しかし実際に問題なのは、能力そのものに問題があるというよりは、たとえば私のようなもののところに相談があったときには、すでに手がつけられないほど、症状がこじれてしまっているということ。たいていは無理な学習や強制的な学習が日常化していて、学習するということそのものに、嫌悪感を覚えたり、拒否的になったりしている。中には完全に自身喪失の状態になっている子どももいる。 原因は親にあるが、親自身にその自覚がないことが、ますます指導を困難にする。どの親も、「自分は子どものために正しいことをしただけ」と思っている。中には私がそれを指摘すると、「うちの子は生まれつきそうです!」と反論する親さえいる。(生まれた直後から、それがわかる人などいない!) ●コースからはずれたらダメ人間?  ……と書きながら、日本の教育はどこかゆがんでいる。日本の教育にはコースというのがあって、親たちは自分の子どもがそのコースからはずれることを、異常なまでに恐れる。(「異常」というのは、国際的な基準からしてという意味。)こういうばあいでも、本来なら子どもの能力にあわせて、子どものレベルで教育を進めるのが一番よいのだが、日本ではそれができない。スポーツが得意な子どももいれば、そうでない子どももいる。勉強についても、得意な子どもがいる一方、不得意な子どもがいる。いてもおかしくないのだが、日本ではそういうものの考え方ができない。勉強ができないことは悪いことだと決めてかかる。このことが、本来何でもないはずの問題を、深刻な問題にしてしまう。それだけならまだしも、子どもに「ダメ人間」のレッテルをはってしまう。考えてみれば、おかしなことだが、そのおかしさがわからないほどまで、日本の子育てはゆがんでいる。 ●落第を喜ぶアメリカの親たち ……という問題が、勉強が苦手な子どもの問題にはいつもついて回る。だからといって、勉強などできなくてもよいと書くのは暴論だが、子どもの勉強は子どもの視点で考える。たとえばアメリカでは、学校の先生が親に、子どもの落第を勧めると、親はそれに喜んで従う。「喜んで」だ。ウソでも誇張でもない。事実だ。子どもの成績がさがったりすると、親のほうから落第を頼みにいくケースも多い。アメリカの親は、「そのほうが子どものためになる」と考える。しかし日本ではそうはいかない。そうはいかないところに、日本の子育ての問題がある。

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