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カテゴリ:日々の徒然
ディズニーランドが苦手で、小学校1年生の頃、親につれてってもらった1回と、中学生の1回しか今まで行ったことがなく、これから先もたぶん行かない。笑。
消費することの楽しさ、与えられる楽しさ、用意された楽しさだけにしか思えなくて、なんだか空しい。 ディズニー嫌いといえば、子どもらしくないことと一般的にはされるような。 大人になっても、ディズニーランドが好きだということが、子どもらしいことのように、広く世の中では言われてるような気がするけど、果たしてどっちが子どもらしいんだろうと思う。 褒め言葉としてのバカな大人=子どもだと思う。 それは、与えられず、自分で楽しさを日々の中に見つける人だと思う。 子どもが遊びの中でやってる創造的なことを大人になっても、日々の生活、仕事の中でやってる人がバカな大人。長田弘は立派な子どもっていってました。 お金を出して、モノを得るのは、お金で楽しさを買うということ。買うかわりに、楽しさは相手にゆだねるもの。でも、相手が創ってくれることを自分で創った方が楽しかったりして。 お金を出して、何かを得ているようで、実はココロの中には何も得ていなかったりして。 遊びは買うものだと思ってると、買わないでも得られる遊びに気が付かずに過ごすんだろうなぁと思う。そう思うと、楽しめる自分でよかったと、自己肯定。 消費することで得る楽しさしか分からなかったら、10の楽しさでは満足できなくなり、100の楽しさをまた、お金で買う。 そんな風になっていかないのかしらんと思います。 コーチング講座の理論を思い出すのですが、常に相手にしてもらう立場なら、いいものをもらったら、『ありがとう』と思い、何かうまくいかなければ、それは相手が悪いとなるそうな。感情の原因常に相手にある。 だから、用意してもらえる楽しさになれてたら、楽しさがあるうちはいい。 でも、何も楽しいことはない、何か楽しいことを誰かくれないかと、環境や現実に不満をもつのではないかと思う。 コーチングで言う特定の人は、それは社会に置き換えることができ、何で世の中は何もしてくれないんだと、あきらめとか不満、愚痴になっていくのではないかなぁ。 人と話す楽しさとか、創ったり、企画したり、本を読んだり、絵を観たりする楽しさは与えられたきりではなく、その体験や表現に出会ってから、勝手に変わっていく可能性がある。 一粒で、何粒、倍の倍の倍粒となり、広がるので、こんなお金のかからない、楽しみ方はないと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年07月17日 01時31分22秒
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