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カテゴリ:日々の徒然
表現することも、表現する人も、表現物が好きで、大切にしたいと思う。
大きければ、売れれば、人が集まればいいのか?って思います。 だから、結果だけを見て、過程の中で表現を大切にしていない人には共感できない。 外に向かって発信していること、行動は表現です。 表現はクリエイティブなことだけでなく、企画も仕事もですね。 大きさや見た目だけが評価基準ではない。 何かでっかいことやりたいって言って、でっかさだけを誇ってる人とかたまに見ますが、なんだか違うなぁと思う。 よく、ただ知り合いだからとか、絵本で何かやってるからとか、それだけで、その人が表現しようとしていることは、自分が共感するものであり、そして一緒に何かできるという前提の人にたまに出会う。ものを買うのも、一緒に何かするのも、面白いよって人に紹介するのも、大前提にその人がどんな人、どんな思いなのかを理解してのことだと思う。 だから、コミュニケーションを通してのことで、それは当たり前のプロセスだと思う。 初めて会った人と関係をつくることと同じ。でも、何か自分と共通項があるだけで、その過程はすっとばしてしまう人がいる。 私との間に何の理由があるのかなと。 あ、でも仕事(組織でお給料もらってすること)の関係は、相手と自分(個人)とつながってるのが必ずしも大前提ではないけど。組織の思いでつながってる。 でも、相手の表現を大事にするのは通じてますが。 相手がどんな人なのか、相手の生き方や言葉に耳を傾ける機会を持ってない、顔を突き合わせて話してないのに、その人が表現したものに賛同するなんてできない。 自分との共通項はつながりのようで、自分の心とつながってない、何も響いてないので、それはつながりではない。 だから、そうしたつながりだけで、共感することや力を貸すことが優しさではない。 表現を大切にするからこそ、そんなことはできないと思う。 ほんとにいいと思えるものでなければ、相手の姿勢に共感できないなら、自分自身その人の表現をいいかげんに扱うことになる。 大切に思うからこそ、客観的な立場を取る。 でも、それってアナタは冷たい人間だと言われそうな。 でも、自分の感情はどうなのかと考えないこと、相手の表現をよく考えずに受け入れることは優しさなのか?って思います。 もし、自分の仕事、企画、作品に表現者として誇りを持って、表現したものを大切に思うなら、きっと風に吹き飛ばされてしまうチリみたいに表現物は扱わない。 適当に人には伝えない。一人一人とのコミュニケーションに熱を注ぐと思う。 それを自分でやるから、周りに過度な期待や依存をしないのではないかと思う。 愚直に、自分の足と言葉と頭と手を使い、伝える術を考え、伝えていくと思う。 そういう姿に共感するし、そういう人とは協働・協創し、協力したいと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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