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カテゴリ:日々の徒然
自分と多くの人との違いを、感じてしまうことがある。違うなんて当然。
その違いを感じて、寂しい風がピューッと吹きぬける時もある。 自分のアイデンティティがそこにはないというか。 よくあることで、そういう違和感は昔は小さなもので、気にならないというか、我慢できた。 でも、自分が思いをかけてるベクトルが違うということが、はっきりわかる。 必要としてることがわかる。 自分がやりたいとか、学びたいとか、楽しい、創りたい、変えたいとゆうことへの呼応がほしい。 具体的にしてることや、職業などは関係なく、考えることができる人かどうかってことなんだなと思う。そんなことが分かっちゃったんだよなと思う。 人に求めても、そういう人はすごくレアだというのが現実。 共有しえないという感覚をもつ場があり、会話が無意味、その時間が無意味に思え、たくさんの人が楽しそうでも、悶々と話せず、場で孤独を感じる。 場と自分との接点がない。 そういう時、話ができる場所にいきたい、話ができる人に会いたくなる。 話せる人がいるからこそ、話せない場所の無意味さが分かってしまった。 話せる人がいることも、話すことによってどう面白くなるかということも分かるからだなぁと思う。 パンドラの箱をあけたみたいに、そうした人はいるのかと分かり、人から人がつなぐみたいに、面白く、アツイ人との関係は広がる。 でも、広がるほど、ギャップが浮き彫りになるといいますか。 そんな、ストレスフルな場に出た時、どうしたらいいのかなと思う。笑。うーん。 時と場合によるけど、奪われるエネルギーがけっこう大きいときもある。 ストレスフルか、そうでないかは、予測が立ったりする。防衛する手段はないものか。 人間は好きだけど、人間は好きではないのかもしれないとも、思う。 一人の世界で、あきらめるのでもなく、今、話せる人や場があるならば、もっと自分とつながることができる人はいるだろう。 自分が学び、動けば、であう人が変わる。 同時に失うつながり、自分から離れていく関係もある。 その時、自分はつながっていた、そう思ってたけど、実は何もつながってはいなかった、話してはいなかったんだと思う。それはしかたないけど、哀しい。 深くコミットはできない、わかってもらえる人なんていないのだーと、前提を立ててしまう傾向があるなぁと思う。 たぶん、昔は人と関係をつくるのを放棄、期待してなかったけど今は違うと思う。 今と、過去と違うからだと思う。 共有できる人達はいるんだと、今は知っているから。 自分の心に素直に、目の前の人を理解することをあきらめず、人と関わっていきたいなぁ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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