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カテゴリ:「心」というものについて
Happy for No Reason この言葉が気に入っている。 Marci Shimoffという著者さんの英語の本のタイトル。 まだ読んでいないのだが タイトルだけで、考えるところがたくさんだ。 理由もなく、周りの人や環境に依存せず 今幸せを感じたいと思う。 先日紹介したセドナメソッドの本を読んで知ったこと。 悩みや恐れの感情は自分の心の手がつかんでいるもの。 きっかけとなった出来事が、本当はもっと小さくても 過去に終わったものでも 本当は実体のないものでも 自分の心の中の手が、ただそれをつかみ続けているだけのことがある。 離すのが、ただこわいとか それを離せば、もっと大きな問題がやってくる気がして。 理由もなく。 ただその手を、ふっとゆるめる。 原因の分析もいらず 頭で考えることも必要とせず つかんでいる感情を、ふと手放すこと。 にぎったペンが、離すと自然に手から落ちるように。 それがセドナメソッドで言う"解放"。 いつ、どんな状況でも、誰にでもできると書いている。 身近で大切な人が悩んでいるとき。 気づいてほしい。それをにぎりしめているのは自分自身だと。 でも、その気づいてほしい気持ちも手放す。 なぜなら、大切な人を支えたいとき 私たち自身の幸せが、その相手に依存してしまっては つまりその人が先に幸せにならなければ、決して幸せになれないのなら 自分がいつ幸せを感じられるのか、相手次第になってしまうから。 それでは支えるつもりが、問題がひとつ増えただけ。 大切な人の笑顔が大事。それは間違いないこと。 けど、誰かを支えたいとき、 私たち自身は、まず何にもよらず幸せであることが大事だと思う。 それでなければ 本当に誰かの力になることなどできないから。 そして本当には 支えるということもおこがましい 自分の内側の力で、立つことができると知ってもらえれば その例を示せる人になれたらなぁと たまごとにわとり この問題が解決しなければ あの人は幸せになれない あの人が幸せになってくれなければ 私は幸せになれない その輪を、ここで止める。 誰にも、何にも依存せず 理由もなく、ただ自分の内側に幸せの湧き出る泉があれば。 --------------------------- 以前、親戚の不和を目にしていたとき 妹にふと言ったことがある。 「私、この先何があっても、○○(妹の名前)のこと一生好きでいるから」 それはできると私は思ってそう言ったのだが それは「一生仲良くしていようね」とは違うから。 何があっても、例えけんかするようなことがあっても ただ私のほうは好きでいようと決めていればそれでいい。 どっちかが好きでいれば、そんなけんか別れみたいなことには ならないだろうと。 そのときは、妹は 突然の姉の発言にびっくりしたのか 「えぇ~、…ほんと?」 などと言っていたが(おいおい) しばらく経った頃、ふと思い出したかのようにこんな話をした。 「あのとき、こう言ってくれたでしょ。 それで私、そうか、これは幸せも一緒だと思った。 "これから先何があっても、私は一生幸せだと決めてしまえばいい"って」 今、我々姉妹が心配性の母に 将来のことだの、娘には幸せになってほしいだのと 先を心配されるような言葉をやいのやいのとかけられると 妹は「私は、今も幸せだよ」と答えている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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