1439194 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

     ヒジャイ        日々の詩

     ヒジャイ        日々の詩

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

2017/08/22
XML


新発売


新発売・沖縄内なる民主主義13 A5版  定価1380円(税込み)
新発売・台風十八号とミサイル 定価1450円(税込み)

本土取次店 (株)地方・小出版流通センター
http://neil.chips.jp/chihosho/ TEL.03-3260-0355 
chihosho@mxj.mesh.ne.jp
県内取次店 株式会社 沖縄教販
電話番号098-868-4170
shopping@o-kyohan.co.jp

本土取次店 (株)地方・小出版流通センター
http://neil.chips.jp/chihosho/ TEL.03-3260-0355 
chihosho@mxj.mesh.ne.jp
県内取次店 株式会社 沖縄教販
電話番号098-868-4170
shopping@o-kyohan.co.jp


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
彼女は慰安婦ではない 違法少女売春婦だ 少女慰安婦像は韓国の恥である10 世界の国々の戦地性政策の違い

中国が慰安婦は軍が管理している売春婦であったことを発表した
河北省石家荘市で、1938年当時の旧日本軍の「遊興料金表」が発見された。当時の慰安婦制度が日本軍の許可と支持を受けていたことを示すものとして、注目されている。12日付で河北新聞網が伝えた。

同市内に在住する張さんが今年、1938年と刻印のある旧日本軍の「警備情報」を約100冊、友人を通じて日本で購入し、その中の1冊に挟まっていた。「遊興料金表」の内容は、「将校が1時間2円、時間増しは1時間当たり1円。12時から翌朝7時までは8円。下士官兵は1時間当たり1円50銭。時間増しは1時間当たり80銭」となっている。「正定警備隊本部」との落款があり、「第9師団後備歩兵第1大隊」と赤い朱肉で押印されている。
料金表を翻訳した河北大学師範大学歴史文化学院の孫文閣副教授は、「当時、日本軍が正定に慰安所を設け、将校や下士官兵に対して慰安所を出入りする際の料金を定めていたことを示すものだ」と指摘している。
これと同時に、慰安婦の「身体検査表」も発見されており、喜楽館、日進館、新京館の慰安所で慰安婦16人に対して身体検査を行ったことが記録されている。そのうち、「愛子」と「花子」が不合格になっていたことも記されている。
河北歴史文献研究者の王律氏はこれについて、「具体的な人名、場所、時間などが書かれており、すべて真実であることは間違いない。当時の慰安婦制度が日本軍の許可と支持を受け、公然と行われていたことを示すものであり、こうした史料は非常に珍しい。慰安婦制度の真相を覆い隠そうと企む日本軍国主義のウソを暴くものだ」との見方を示している。
「FOCUS-ASIA.COM」(編集翻訳 小豆沢紀子)
 河北新聞網は、日本政府が慰安婦制度が日本軍の許可と支持を受けていたことを認めていないと勘違いしているようだ。戦前の日本政府は慰安婦制度を認めていた。日本政府は売春婦の人権を守る娼妓取締規則という法律を制定していた。朝鮮では売春が自由であったが、韓国併合をした時に貸座敷娼妓取締り規則を制定した。この法律は日本は18歳以上、韓国は17歳以上と年齢を制限した。そして、売春婦を保護し性奴隷にされないための規則をつくった。
 「遊興料金表」が慰安婦は売春婦であったなによりの証拠である。慰安婦の「身体検査表」があったということは慰安婦の健康と性病を定期的に検査していた証拠である。娼妓取締規則は定期検査を義務づけている。日本国内であったら民間の医師が検査していたが、大陸では民間の医師に代わり軍医が検査していた。
 「愛子」と「花子」が不合格になったということは彼女たちが病気になっていたか性病にかかっていたからである。
「当時の慰安婦制度が日本軍の許可と支持を受け、公然と行われていたことを示すものであり」と鬼の首でも取ったように河北新聞網は報道しているが、それは日本政府が認めていることである。
 「こうした史料は非常に珍しい」と述べているが全然珍しくない。このような資料はたくさんある。沖縄にもある。慰安婦が性奴隷であったと主張している連中がこのような資料を無視しているから慰安婦が売春婦であったとする証拠はないと錯覚するのだ。
「慰安婦制度の真相を覆い隠そうと企む日本軍国主義のウソを暴くものだ」には笑える。河北新聞網は慰安婦のなにが問題になっているかを知らないようだ。
 慰安婦制度の真相を隠しているのは慰安婦は性奴隷であったと主張している連中であって日本政府ではない。河北新聞網が見つけたのと同じ資料を隠しているのは性奴隷を主張している連中なのだ。
 河北新聞網は慰安婦が性奴隷ではなく売春婦であった資料を公表した。慰安婦問題に関しては河北新聞網は日本の味方だ。 

日本と韓国政府が「慰安婦」問題合意をしたことについて、沖縄の慰安婦支援者は批判しているが、矛盾している。
 慰安婦問題は国連や米国で慰安婦は性奴隷である言われているからである。慰安婦は性奴隷かそれとも売春婦かの問題であり、そのことを明確にするのが慰安婦問題の重要な点である。沖縄で明らかになったのは慰安婦が売春婦だったことである。
西原町に住む女性史研究家の浦崎成子さん(68)は「日本政府は公の場で当事者の声を聞いていない。『慰安婦』がどういうシステムだったかも明確にしないまま決着とするのは、女性の人権に対する冒涜(ぼうとく)でしかない」と憤っているというが沖縄の慰安所のシステムについては明らかになっている。
「慰安婦」や「軍夫」の問題に取り組むNPO法人沖縄恨之碑の会代表の安里英子さん(67)は「被害者が戦後70年、血と涙で訴えてきたことをこれで終わりにして、もう二度と蒸し返してくれるなという意図が見え見え。それを受け入れた韓国政府にも失望する」と強調し、「日本が犯した最大の人権侵害を薄っぺらい支援策で覆い隠すのは、さらなる犯罪に他ならない」と批判している。
 2012年の「沖縄戦と日本軍『慰安婦』」展で実行委員長を務めた高里鈴代さん(75)は「軍の関与を認め、政府の責任を明確に言った点では一定評価する」と語る。ただ「被害者が納得するかは別で、問題は決してこれで終わらない」と指摘している。
 沖縄にはかつて140カ所以上の慰安所があったとされるが、沖縄の慰安婦は売春婦であって性奴隷ではなかったことが明らかになっている。沖縄では慰安婦が売春婦であったことを認識した上で、女性の人権が踏みにじられたことを批判しているのである。それは韓国女性の慰安婦が朝鮮ピーと呼ばれていたことでも分かる。ピーとは売春婦のことである。日本の売春婦はピーと呼ばれ、朝鮮の売春婦は朝鮮ピーと呼ばれていた。
 戦前の日本は売春は合法であった。売春が人権侵害であると批判するならば、韓国だけでなく日本の売春婦も問題にするべきである。韓国の慰安婦のみを問題にするのは矛盾している。

 沖縄は復帰前まで売春は合法であった。ところが彼女たちは沖縄の女性の人権を問題にしていないのである。戦前ではない。戦後の沖縄の女性の人権問題である。戦後の沖縄女性の人権を問題にしないで、戦前の韓国の女性の人権を問題するのは、彼女たちが沖縄女性の人権問題に真剣に取り組んでいない証拠である。

世界の国々の戦地性政策
第二次世界大戦では、それぞれ国の戦地性政策は異なっていた。大別すると三類になる。
○ 自由恋愛型 私娼中心。イギリス軍、米軍
○ レイプ型 ソ連
○ 慰安所型 日本、ドイツ、フランス

世界の国々の戦地性政策
第二次世界大戦では、それぞれ国の戦地性政策は異なっていた。大別すると三類になる。
○ 自由恋愛型 私娼中心。イギリス軍、米軍
○ ごうかん型 ソ連
○ 慰安所型 日本、ドイツ、フランス


自由恋愛型 私娼中心
「女性を隠せ」、街中いたるところで性こうい
○自由恋愛型とは、私娼中心で公娼制度を持たないものでフェミニズムによる批判や世論を受けて公娼制を公認できなかったためとされ、英米軍がこれに該当する。

米メディアがノルマンディーに上陸した米兵について、キスをする米兵と若いフランス女性の写真を掲載するなどロマンチックな視点で解放者として描いていた間、地元の人々は「問題」に直面していた。地元には、「ドイツ兵を見て隠れるのは男たちだったが、米兵の場合は女たちを隠さねばならなかった」という話が伝わっている。

米兵たちの放蕩ぶり、不法行為、さらには組織的な人種差別などもあった。「GIはどこでも所かまわずセックスしていた」とロバーツ教授は述べている。
特に、ルアーブルやシェルブールでは米兵たちのマナーの悪さが目立ったという。米兵たちは、女性を見れば既婚女性でさえ公然とセックスに誘い、公園、爆撃を受けて廃墟と化した建物、墓地、線路の上など、街中いたるところが性こういの場となった。しかし、全てが両者の合意のもとで行われたわけではなく、米兵によるごうかんの報告も数百件残されている。

ロバーツ教授が調べた資料によれば「セックスをしている男女を見かけずに街を歩くことは不可能」なほどで、当時のルアーブル市長が米駐留部隊の司令官に改善を求めたと記されていた。米軍の上官らは兵士たちの行為について公式な非難声明は出したが、改善の努力はしなかったという。「AFPBB ニュース」
レイプ型
ソ連(ロシア)では慰安所は設置されていないがごうかんが黙認された。スターリンは敵国の女性を戦利品とする「戦地妻」を容認し、「わが軍兵士のふるまいは絶対に正しい」と兵士を鼓舞した。ソ連軍は占領したドイツで集団ごうかんを広範囲に行い、レイプの被害者数はベルリンでは九万五〇〇〇〜十三万、東プロイセン等では一四〇万人、ドイツ全域で二〇〇万人にのぼった。 
 ソ連軍は満州や朝鮮半島では日本人女性のごうかん行為を各地で繰り返し、ソ連軍によって監禁された約一七〇名の日本女性がごうかんを受け、二十三人が集団自決した敦化事件も起きている。

敦化事件(日満パルプ事件)
敦化事件とは第二次世界大戦の終戦直後に満洲国吉林省敦化で起こった日本女性への深刻な人権侵害事件。

事件の現場となった日満パルプ製造敦化工場は1934年に王子製紙が敦化県城南門外牡丹江左岸(敦化郊外5キロ)に設立した工場。
工場に隣接して設置された社宅地は高さ4.5mの煉瓦壁でおおわれた2万坪の敷地内に壮麗な造りの社宅と福利厚生のためのクラブなどが設けられており、日本人職員とその家族260人が暮らしていた。
1945年8月9日未明に突如としてソビエト連邦が満洲国に侵攻し、敦化に近い東部国境付近では関東軍・満洲国軍がソ連軍と交戦していたが、工場や敦化市内では満人や朝鮮人の態度も変わることなく治安が保たれたままであった。8月15日に敗戦を迎えた後も工場の満人や朝鮮人従業員は変わることはなかったが、敦化市内では満人や朝鮮人の一部による略奪・放火・日本人女性への暴行が行われるようになった。
8月19日、ソ連軍が敦化市内に進駐してきたため、敦化守備隊は降伏し武装解除された。
ソ連軍は社宅に侵入すると1時間以内に社宅の一角を引き渡すよう要求した。ソ連兵はすぐにホテル・レストランを兼ねた壮麗な造りのクラブに惹きつけられていった。ソ連兵はクラブ従業員の女性2人を引きずり出すとジープで社宅から連れ去った。数時間後に拉致された2人の女性のうち、1人はボロボロの姿で帰ってきたが、もう1人は帰ってこなかった。
8月25日、ソビエト軍は男性全員を集合させると10キロほど離れたところにある飛行場の近くの湿地に連行し、婦女子は独身寮に集められた。
170人ほどの婦女子は15,6人ずつに分けられ監禁されることとなった。
夜になるとソ連兵300人あまりが独身寮に移ってくるとともに短機関銃を乱射する頻度が夜が更けるにつれて増えていった。女性たちは夜が明けることを祈りながら一晩中恐怖と戦っていた。

8月26日夜明け、酒に酔ったソ連兵たちは短機関銃を空に乱射しながら女性たちが監禁されている各部屋に乱入すると女性たちの顎をつかみ顔を確認しながら気に入った女性たちを連れて行こうとした。女性たちは金品を渡したり、許しを懇願したが聞き入れられず、次々に引きずり出されていった。各部屋からは女性たちの悲痛な叫びが溢れたが、ソ連兵は構うことなく短機関銃を乱射し続けていた。
このため、女性たちは頭を丸坊主にしたり、顔に墨を塗るなどしたが、ソ連兵によるごうかんは朝になっても収まることはなく、 部屋に乱入すると女性たちの胸部をまさぐるなどして気に入った女性たちを何度も連行していった。社宅と塀を隔てた工場に残されていた男性社員たちは社宅の異変を察知するとソ連兵の監視を掻い潜り塀を乗り越え社宅に潜入したが、厳重な警戒が布かれている独身寮には近づくことができなかった。
ソ連兵たちは狼藉を続けるうちに女性たちの部屋の廊下に監視兵を置くようになったため、御不浄や食事もままならないようになった。女性たちは自身のおかれている状況や絶え間ない銃声からすでに男性社員たちは皆殺しにあったのではないかと考えるようになった。
ソ連兵による女性たちへの昼夜に渡る暴行は8月27日の深夜になっても収まることはなかった。このため、28人の婦女子が集められていた部屋では自決をするべきか議論がなされるようになった。議論中にもソ連兵の乱入があり、隣室からも女性たちの悲鳴や「殺して下さい」などの叫び声が聞こえてきたため、自決することに議論が決した。

隠し持っていた青酸カリが配られ全員が自決を図り、23人が死亡、5人が死に切れずに生き残った。他の部屋ではソ連兵に引きずり出されるときに剃刀で自殺を図った女性もいた。
8月27日早朝、ソ連兵が集団自決を発見し、将校に報告されると各部屋にはソ連兵の見張りが付けられ、女性たちは外を見ることを禁じられ、遺体はどこかへ運び去られた。責任を問われることを恐れたソ連軍将校によってこれ以上の暴行は中止されることとなった。
                   敦化事件(日満パルプ事件)
大古洞開拓団(三江省通河県)ではソ連軍による慰安婦提供の要請を受けて、二名の志願慰安婦を提供している事例もある。
朝鮮人(朝鮮保安隊)も朝鮮半島の吉州郡や端川市などでソ連兵とともに非戦闘員の女性引揚者への集団ごうかん行為をおこない、ごうかん後に虐殺するケースもあった。ごうかんにより妊娠した引揚者の女性を治療した二日市保養所の一九四六年(昭和二一年)の記録では、相手の男性は朝鮮人二十八人、ソ連人八人、中国人六人、アメリカ人三人、台湾人・フィリピン人各一人であり、場所は朝鮮半島が三十八件と最も多く、満州四件、北支三件であった。また、中国共産党軍による通化事件が起きたほか、引揚列車に乗り込んできた中国共産党軍によって拉致された女性もいた。

慰安所型
戦前の日本には売春禁止法がなかった。日本は売春を認めていた。だから売春は自由にやっていたと思っている人は多いだろう。しかし、それは大きな間違いである。日本政府はフリーな売春を禁止していた。売春を自由にさせてはいなかった。売春を認めていたが厳しい規制で管理していた。
日本には売春を規制する法律があった。それを娼妓取締規則という。その法律を遵守する制度を公娼制度という。それは売春を公認することであるが、公娼制度の目的は無秩序な売春を国が管理して、秩序ある売春によって売春婦を保護し、トラブルをなくすことにあった。
自由恋愛型(私娼中心。イギリス軍、米軍)、慰安所型(日本、ドイツ、フランス)、レイプ型(ソ連)のどちらが一般女性の被害が少なかったか。皮肉なことにも今世界から非難されている日本の慰安所型である。日本軍による一般女性の性被害はあったかもしれないが自由恋愛型やレイプ型に比べれば非常に少なかった。それなのに日本の慰安婦問題だけが取り上げられ非難されているのだ。
 それはなぜか。国連や世界の国々は慰安婦を性奴隷とみなしているからだ。

「仲間の一人が一日四〇人もサービスをするのはきついと苦情を言うと、ヤマモト中隊長は拷問したのち首を斬り落とし、「肉を茹でて、食べさせろ」と命じた。性病消毒のため熱い鉄の棒を局部に突き刺されたり、生き埋めになったり、入れ墨されたりして少女の半分以上が殺された」
このような話が国連人権委員会で認定されている。これが世界が認識している日本の慰安婦の姿だ。
                        橋本市長ツイッターより
首を切られ、肉をゆでられ、局部に熱い鉄の棒を突き刺されたり、生き埋めにされ、半分以上の少女が殺されたという慰安婦の話は日本国内では聞いたことがない。日本軍がそんなことをやったとは考えられない。

 慰安婦とは大陸に渡った日本兵を相手に日本軍の慰安所で売春をした公娼である。多くの人が勘違いしているのは日本兵を相手にしたすべての売春婦を慰安婦であると思い込んでいることだ。売春婦=慰安婦ではない。慰安婦は政府が公認した売春婦であり娼妓取締規則を遵守した売春婦である。彼女たちは慰安所のみで商売をし、指定された住居でのみ生活をした。大陸には慰安婦ではない売春婦も多くいた。
勝新太郎が主人公の満州を舞台にした映画「兵隊やくざ」では違法な売春婦を女郎と呼び、売春宿を女郎屋と呼んでいた。慰安所以外に違法な女郎屋も多く存在していた。日本兵を相手にしたすべての売春婦が慰安婦であったと思うのは間違いである。

元慰安婦を私は「自称慰安婦」と呼ぶ。彼女たちが慰安婦である証拠は彼女たちの発言のみであって証拠はなに一つないからだ。慰安婦問題で民間の日本兵相手の売春宿のことが問題にされたことがない。日本や朝鮮の民間人の経営による朝鮮女性の日本兵相手売春宿がたくさんあったのは事実である。韓国では日本兵相手の売春婦全員を慰安婦と呼んでいる。民間なら17歳未満の少女を働かせたり、性奴隷にしただろう。
朝鮮日報日本語版のコラム「慰安婦合意にはらわたが煮えくり返る日本の極右」には明らかに慰安婦ではなかった女性を慰安婦としている。元慰安婦支援団体「韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)」が偽の慰安婦を慰安婦だと書いている。

 中学生の娘がいる。自分ではもう子どもじゃないと思っているようだが、私からすればまだ産毛が生えているようなものだ。世の中のことも分かっていない。強く育てなければと思いながら、少し寒い日に子どもが靴下だけ履いて登校すると、「厚手のタイツを履かせれば良かった」という思いが一日中頭を巡る。だから元慰安婦支援団体「韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)」が発行した従軍慰安婦証言集を読んだ時、思わず力が入った。
13歳の時、静岡県内の慰安所で天皇の降伏放送(日本で言う玉音放送)を聞いたという元慰安婦の女性がいた。戦争が終わったのに、すぐには解放されなかった。「母のことばかり考えていた」と言った。
敗戦直前、見かねた日本軍将校がこっそり脱出させてくれたという元慰安婦の女性も1人いた。だが、圧倒的に多数の元慰安婦女性はニューギニアで、パラオで、生まれてこの方名前も聞いたことのない南太平洋の小さな島で最後まで日本軍兵士の相手をした。
証言は一つ一つどれも悲惨だった。例えば、ユン・ドゥリさん(2009年死去)は15歳の時、警察署の前を歩いていた時、巡査と業者に「良い所に就職させてやる」と言われ、その日の夜に軍用トラックに乗った。後に慰安所から逃げようとして見つかり、銃で撃たれた。傷が化膿(かのう)して肉がえぐれたが、手術を受けて3日目にまた慰安所に行った。ユン・ドゥリさんは「この時が一番つらかった」「横にもなれないのに、軍人の相手をしろと言われ、とても痛かった」と言った。17歳の時まで1年11カ月間、1日30‐40人の相手をした。「とにかく死なない限り、兵士の相手をしなければならなかった」という。
「朝鮮日報日本語版 12月31日」
 日本国内に慰安所ができたのは沖縄だけである。静岡県に慰安所があったというのは嘘である。日本国内にあったのは遊郭である。遊郭の遊女(売春婦)は18歳以上でなければならなかった。18未満は遊女になれなかった。明治時代に遊女の人権を守るために「娼妓取締り規則」という法律ができた。その法律には18歳未満が「娼妓」になることを禁じていた。
 13歳の時に静岡県内の慰安所に居たということに二つの間違いがある。13歳で慰安婦になることはできなかったということと静岡県に慰安所はなかったということである。そこは違法な売春宿であっただろう。
 ユン・ドゥリさんの話も嘘である。15歳では慰安婦になれないこと。朝鮮で慰安婦になるには警察に自分の意思で慰安婦になることと、両親や縁者などの許可が必要であり、その書類を警察に提出しなければならなかった。その書類は日本軍の輸送隊に渡り、現地の憲兵隊に渡された。現地では憲兵による面接もあった。
 ユン・ドゥリさんの話では慰安婦のあくどい勧誘に警察が関わっているが、それは慰安婦になるためには警察に申し出なければならなかったことをゆがめて話しているからである。
 慰安婦が一日に30―40人の日本兵を相手させられたというのは事実である。それは日本政府も認めている。問題は慰安婦が性奴隷であったか否かであり、日本軍が強制連行したかどうかである。慰安婦が売春婦であったという資料はたくさんあるが性奴隷であったという証拠は「自称慰安婦」の発言だけである。強制連行したというのも証拠の資料はなく「自称慰安婦」たちの発言のみである。
 沖縄にあった韓国女性の慰安婦が売春婦であったことは多くの証拠が残っている。性奴隷であった証拠はない。戦争が終わった時、一人の女性以外は全員故国朝鮮に帰っている。
 慰安婦が売春婦であった証拠は多くあり、性奴隷であったという証拠はなく、「自称慰安婦」たちの証言だけを証拠にしているから、慰安婦問題で日本と韓国が妥協合意することは不可能である。
韓国の元少女慰安婦が日本の各地で講演し、日本政府を訴えている。韓国では少女慰安婦の銅像を日本大使館の前に建てた。アメリカでも少女慰安婦像を増やしている。だから、彼女を違法な少女売春婦だと言っても信じる人は少ないだろう。しかし、それは事実だ。戦時中の挑戦はは法治国家だった。法律は十七歳未満の売春婦を認めていない。韓国は違法な少女売春婦像を建設しているのだ。韓国の恥を振りまいているといっても過言ではない。今に韓国は赤っ恥をかくことになるだろう。

「米軍慰安婦だった」と韓国人女性122人が集団訴訟
 朝鮮戦争後の韓国で、政府の管理の下、駐留するアメリカ兵士の相手をさせられ、「米軍慰安婦だった」と主張する女性たちが、韓国政府に対し謝罪と賠償を求め集団訴訟を起こした
訴えを起こしたのは、いわゆる「基地の村」でアメリカ人兵士の相手をさせられた「米軍慰安婦だった」と主張する韓国人の女性122人である。
「基地の村」とは、朝鮮戦争後の1950年代後半、韓国に駐留したアメリカ軍の付近にできた集落とされ、女性たちは声明書で「国家が旧日本軍の慰安婦制度をまねて『米軍慰安婦制度』を作り、徹底的に管理してきた」と指摘した。
 その上で、当時、政府が特定地域を売春防止の除外対象としたほか、女性を国家に登録させ、「愛国教育」という名称で教育まで受けさせたと説明している。

 女性たちは韓国政府に対し、「米軍慰安婦制度」の歴史的事実と法的責任を認め、被害者に謝罪するとともに、1人あたり日本円でおよそ100万円の賠償を求める訴えをソウル中央地裁に起こしました。
 韓国では、過去にもこの問題が取り上げられたことがありますが、支援団体によると、こうした女性たちが訴訟に踏み切るのは初めてです。
                 TBS系(JNN) 六月二十六日(木)
 韓国政府は日本軍のやり方を真似て米軍相手の慰安婦制度をつくっていた。ただ、日本軍は合法であり、法律を順守した行為であったが、韓国は売春を禁ずる法律がありながら韓国政府が違法行為をした。

○ 女性には十代の娘もいた。
○ 人身売買や拉致によって「基地村」に連行された。
○ 暴力によって強制的に米軍人の相手をさせられた。
○ 彼女たちは警察に助けを求めたが相手にされず、ただ外貨稼ぎに利用された。
○ 米軍人相手に売春することが「愛国」であるといった教育までされた。

 日本軍の慰安婦と戦後の韓国の慰安婦は本質的に違う。
 女性の職業としての売春を認めた「娼妓取締規則」(日本・一九〇〇年)韓国「貸座敷娼妓取締規則」(韓国・一九一六年)は娼婦の人権を保障する法律であったが、その法律を遵守したのが日本軍の慰安婦制度であった。

戦時中の慰安婦
○ 本人の意思
○ 日本軍が保護
○ 楼主が七、八人の慰安婦の生活を管理しながら経営
○ トラブルは憲兵隊が処理
○ 日本軍指定の慰安所のみで商売
○ 週一回の軍医の検診

慰安所は遊郭の大陸版であった。人権を保護した日本軍慰安婦と性奴隷だった韓国の米軍慰安婦とは違う。

 韓国政府は「河野談話の検証」が発表された時、慰安婦に関する多くの資料を公開して反論すると発表したが、「さまざまな側面から対応していく」「全方位に対応」と今はトーンダウンしている。
 慰安婦証言のドキュメンタリー映像を慰安婦が性奴隷だったという証拠として韓国政府は公表しているが、「河野談話の検証」で問題になっているのは慰安婦証言の検証をしなかったということである。慰安婦証言のドキュメンタリー映像を発表しても証言が本当であるという証拠を出さないと「河野談話の検証」に対する反論にはならない。
 韓国政府は慰安婦が性奴隷であったという資料は確実に持っていない。だから、慰安婦たちの証言だけを発表しているのだ。

日本軍慰安婦は性奴隷ではなかったことを述べている本も韓国で出版された、「帝国の慰安婦」である。著者の朴裕河(パク・ユハ)氏(五七)=女性=は韓国で生まれ、日本の慶応大学や早稲田大学大学院で日本文学を学んだ後、現在は世宗大学日本語日本文学科教授を務めている。

「帝国の慰安婦」では、日本軍による性的暴力を、

○一回きりのごうかん
○拉致した上での性的暴力
○管理下での売春

の三種類に分類している。そして、朝鮮人慰安婦の大部分はこの三番目のケースが中心であったと述べているという。また、「帝国の慰安婦」は朝鮮人慰安婦と日本軍の関係は基本的には同志的な関係だったと述べている。

 日本軍にとって慰安婦は兵士のストレスを解消し、性病の蔓延を防いで、日本軍の戦力を強くしてくれる重要な存在であった。慰安婦を性奴隷にすれば慰安婦の心が荒ぶ。それは兵士に悪い影響を与える。兵士に悪影響を及ぼさないために日本軍は慰安婦を保護したのである。
日本軍が慰安所を設置したのは慰安婦が性奴隷にされないためであったのだから韓国政府に慰安婦が性奴隷であったという資料があるはすがない。あればすでに公開していたはずだ。米国政府も慰安婦が性奴隷であったという資料を見つけていない。
 他方、慰安婦が性奴隷ではなかったという証拠はたくさんあるし、米政府もその資料を多く持っている。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2017/08/22 09:07:50 AM
コメント(1) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.